戸外《そと》へ突き出された。主翁の額や頬からは血が流れていた。主翁はしかたなく小八の家主の処へ往った。家主の老人は何事だろうと思って行灯を提げて玄関前へ出て来た。
「私は、立山の宿屋の主翁でございますが、貴下の店子《たなこ》の小八さんが、この間立山へ来られて、大金をかけて雇ってある婢を伴《つ》れだして、逃げましたから、今日江戸へ着いて掛合にあがりますと、大勢の朋友《ともだち》といっしょに酒を飲んでいて、私をこんな目に逢わせました」と、都合の好いことばかり云った。
老人は面倒なことが起ったわいと思ったが、店子のことであるから知らない顔をするわけには往かない。そこで主翁を上へあげ、小八を呼びにやって別室でその事情を聞いた。
「女を伴れて来たのはほんとうですが、彼奴はひどい奴ですぜ」と、云って小八は亡者宿の悪事をすっぱ抜いて、「だから、私も男の意地だ、骨が舎利になっても女を返さないつもりでげす」
老人も小八の云うことがもっともだと思った。で、主翁と小八と顔をあわさして主翁に向って云った。
「女には金もかかっているだろうが、お前さんも小八を騙した弱みもあるだろう、諦めて女を小八にやったらどうだな」
「亡者を抱えて客を騙すなぞとは、そりゃ、小八さんの云いがかりじゃ、私は正道な道を踏んでいる宿屋家業の者じゃ」と、主翁は云った。
「やい、この騙《かたり》奴《め》、よくも、よくも、そんなことが云えたものだ、やい、手前がいくらそんなことを云って、ごまかそうとしたって、乃公《おいら》の方には証人があるぜ」と、小八は怒鳴りつけた。
「どんな証人があるか知らないが、私の方には知らないことじゃ、そんなことより、女を渡してもらいましょうか」
と、主翁は澄まして云った。
「まだ、そんなことを云いやがる」と、云って小八は起ちあがろうとした。
老人は小八を制した。
「お前の方に証人があれば、それを伴れて来るが好い」
小八は出て往って彼の女を伴れて来た。
「家主《おおや》さん、これがその騙りの家に抱えられて、亡者をやっていた奴でさあ、これがいっち証拠だ」
老人は女に向って云った。
「お前さんは、この御主翁に抱えられて、亡者をやっていなさったかな」
「はい、私は一生を五十両に売られて、亡者になっておりました」と、女は主翁に顔を反けて云った。
「……どうだな、御主翁」と、老人は主翁の顔を見た。
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