陸判
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)陵陽《りょうよう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その時|呉侍御《ごじぎょ》

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(例)※[#「門<韋」、第4水準2−91−59]

 [#…]:返り点
 (例)[#レ]
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 陵陽《りょうよう》の朱爾旦《しゅじたん》は字《あざな》を少明《しょうめい》といっていた。性質は豪放であったが、もともとぼんやりであったから、篤学の士であったけれども人に名を知られていなかった。
 ある日同窓の友達と酒を飲んでいたが、夜になったところで友達の一人がからかった。
「君は豪傑だが、この夜更けに十王殿へ往って、左の廊下に在る判官をおぶってくることができるかね、できたなら皆で金を出しあって君の祝筵《しゅくえん》を開くよ」
 その陵陽には十王殿というのがあって、恐ろしそうな木像を置いてあるが、それが装飾してあるので生きているようであった。それに東の廊下にある判官の木像は、青い顔に赤い鬚を生《は》やしてあるのでもっとも獰悪《どうあく》に見えた。そのうえ夜になると両方の廊下から拷問の声が聞えるというので、十王殿に往く者は身の毛のよだつのがつねであった。それ故に同窓生は朱を困らせにかかったのであった。
 しかし朱は困らなかった。彼は笑って起ちあがって、そのまま出て往ったが、間もなく門の外で大声がした。
「おうい、鬚先生を伴《つ》れてきたぞ」
 同窓生は起ちあがった。そこへ朱が木像をおぶって入ってきて、それを几《つくえ》の上に置き、杯を執って三度さした。同窓生はそれを見ているうちに怖くなって体がすくんできた。
「おい、どうか元へ返してきてくれ」
 朱はそこでまた酒を取って地に灌《そそ》いで、
「私はがさつ者ですから、どうかお許しください、家はつい其所《そこ》ですから、お気が向いた時があったら、飲みにいらしてください、どうか御遠慮なさらないように」
 と言って、そこでまたその木像をおぶって往った。
 翌日になって同窓の者は約束どおり朱を招いて飲んだ。朱は日暮れまでいて半酔になって帰ったが、物足りないので燈を明るくして独酌していた。と、不意に簾《すだれ》をまくって入ってきた者があった。見るとそれは昨夜の判官であった。朱は起って言った。
「俺は死ななくちゃならないのか、昨日神聖をけがしたから、殺しにきたのだろう」
 判官は濃い髯の中から微笑を見せて言った。
「いや、そうじゃない、昨日招かれたから、今晩は暇でもあったし、謹んで達人との約を果そうと思って来たところだ」
「そうか、それは有難い」
 朱はひどく悦んで、判官の衣を牽《ひ》いて坐らし、自分で往って器を洗い酒を温めようとした。すると判官が言った。
「天気が温かいから、冷でいいよ」
 朱は判官の言うとおりに酒の瓶を案《つくえ》の上に置き、走って往って家内の者に言いつけて肴《さかな》をこしらえさせた。細君は大いに駭《おどろ》いて、判官の傍へ往かさないようにしたが、朱は聴かないで、立ったままで肴のできるのを待って出て往き、判官と杯のやりとりをした。
 そして朱は判官に、
「あなたの姓名を知らしてください」
 と言った。判官は、
「僕は陸という姓だが、名はないよ」
 と言った。そこで古典の談《はなし》をしてみると、その応答は響のようであった。朱は陸に進士の試験に必要な文章のことを聞いた。
「制芸を知っておりますか」
 陸は、
「よしあし位は知っておる」
 と言って文章の談をし、それから冥途《あのよ》の官署の談をしたが、ほぼ現世と同じだった。陸は非常な大酒で一飲みに十の大杯に入れるほどの酒を飲んだ。朱は陸の相手になって朝まで飲んでいたので、とうとう酔い倒れて案にうつぶせになって睡って、醒めた比《ころ》には残燭《ざんしょく》ほの暗く怪しいお客はもういなかった。
 それからというものは、陸は二日目か三日目にきたので、二人の間は、ますます親密になった。時とすると酒を飲んでいてそのまま倒れて寝て往くこともあった。朱が文章の草稿を見せると陸が朱筆で消して、
「どうも佳くない」
 と言った。ある夜、朱が酔うて前《さき》に寝た。陸はまだ独りで飲んでいた。朱はその時夢心地に臓腑に微かな痛みを覚えたので、眼を醒ました。陸が榻《ねだい》の前へ坐って、自分の胸を斬り裂いて腸胃を引き出し、それを一筋一筋整理しているところであった。朱は愕いて言った。
「何の怨みもないのに、なぜ僕を殺すのだ」
 陸は笑って言った。
「懼《おそ》れることはない、僕は君のために、聡明な心を入れかえているのだ」
 陸はしずかに腸《はらわた》を中へ納めて創口を合わせ、その後で足を包む布で朱の腹から腰のあたりを繃帯して手術を終ったが、榻の上を見ても血の痕《あと》はなかった。朱は僅かに腹のあたりが麻《しび》れるばかりであった。ふと見ると陸の置いた肉塊が案の上にあった。朱は怪しんで、
「それはなんだろう」
 と言って聞いた。陸は、
「それは君の心だよ、君の文章の拙いのは、君の心の毛穴が塞っているためだから、冥途に在る幾千万の心の中から、佳いのを一つ選びだして、君のために易《か》えたからね」
 と言って起ちあがり、扉を閉めて出て往った。朝になって朱は布を解いて見た。創口の縫い目はぴったりと合って糸筋のような赤い痕が残っていた。
 その時から朱の文章が非常に進んで、眼にふれたものは忘れないようになった。数日して朱はまた文章を作って陸に見せた。陸は言った。
「いい、この文章ならいい、だが、君は福が薄いから、大いに名を顕《あらわ》すことはできないが、郷科にはとおるよ」
 郷科とは郷試で、各省で行う試験であった。そこで朱は問うた。
「それはいつあるだろう」
 陸は言った。
「今年あるよ、君はそれに優等で及第するよ」
 間もなく郷試があったので、朱もそれに応じてみると第一等の成績を得、秋の本試験には経元《けいげん》に及第した。朱の同窓は朱の郷試に応じたことを笑っていたが、試験の成績を見るに及んで、皆で顔を見合わして驚いた。そして朱にその理由を聞いてはじめて不思議のあったことを知ったので、朱に紹介してもらって陸と交際したいと頼んできた。その結果陸が承諾してきたので、皆で大いに酒席を設けて待っていた。初更の比になって陸が来た。赤い髯を動かし、目を電《いなずま》のようにきらきらと光らすので、皆が恐れて魂のぬけた人のようになり、歯の根もあわずに顫《ふる》えていたが、座にたえられないので一人帰り二人帰りしていなくなってしまった。朱はそこで陸を伴《つ》れて自分の家へ帰って飲み、既に酔ってから陸に言った。
「君に腸を易えてもらって非常な恩を受けているが、も一つ頼みたいことがある、聞いてもらえるかね」
「どんなことだね」
「君は腸をかえることができるから、顔をかえることもできるだろう、僕の妻は、少年の時から夫婦になっているもので、体はそんなに悪くはないが、いかにも顔が拙《まず》いからね」
 陸は笑って言った。
「いいとも、すこし待っていてくれたまえ」
 それから数日して夜半に陸が来て門を叩いた。朱は急いで起きて往って内へ入れ、燭《あかり》を点けた。見ると陸の懐《ふところ》には何か物が入っていた。
「それは何だね」
 と朱が訊いた。陸は懐から包みを出して、
「君にこの間頼まれたものだよ、ちょいと佳いのがなくて困っていたが、やっと今晩佳い美人の首を手に入れたから、君の頼みをはたすことができるよ」
 と言った。朱がそれを開けて見ると血のべとべとした女の頭であった。陸はそこで、
「早く、早く、急ぐんだよ、そして人を起してはいけないよ」
 と言って居間に入ろうとしたが、夜は入口の扉をきちんと締めてあるので朱は困っていた。と、陸が来て片手で押した。扉は手に従ってしぜんと開いた。そこで細君の寝室へ入った。細君は体を横にして眠っていた。陸は美人の頭を朱に持たして、自分は靴の中から匕首のような刃物を出し、細君の頸にあてがって瓜を切るように切りはなした。頭はころりと枕の傍へ落ちた。陸は急いで、朱の持っている美人の頭を取って切口にきちんと合わせ、そして後ろにしっかりと押しつけたが、これがすむと枕を肩にあてがい、朱に言いつけて細君の頭を静かな所に埋めさせて帰って往った。
 朱の細君はその後で眼を醒ましたが、頸のまわりがすこし麻れて、顔がこわばったような気がするので手をやってみた。するとその手に血がついたのでひどく駭いて、婢《じょちゅう》[#ルビの「じょちゅう」は底本では「ぢょちゅう」]を呼んで盥《たらい》に水を汲ました[#「汲ました」は底本では「汲みました」]。婢は細君の顔が血みどろになっているので驚いて倒れそうにした。やがて細君が顔を洗ってみると盥の水が真赤になった。洗った後で細君が首を挙げると、顔の相好が変っているので婢はますます駭いた。細君は鏡を取って顔を映してみた。見も知らぬ人の顔になっているので駭いてしまった。そこへ朱が入ってきて理由を話した。細君はそれによって顔を映しなおして精《くわ》しく見た。それは眉の長い笑靨《えくぼ》のある絵に画いたような美人の顔であった。領《えり》をすかして験べてみると、紅い糸のような筋がぐるりに著いて、上と下との肉の色がはっきりと違っていた。
 その時|呉侍御《ごじぎょ》という者があって、美しい女《むすめ》を持っていたが、二度も許婚《いいなずけ》をして結婚しないうちに夫になる人が歿《な》くなったので、十九になっても、まだ嫁入しなかった。それが上元の日に十王殿に参詣したが、その日は参詣者が非常に多くて雑沓していた。そのとき一人の悪漢があって、呉侍御の女の美しいのを見て、そっと所を聞いておいて、夜になって梯《はしご》をかけて忍びこんだ。そして寝室に穴を開けて入り、一人の婢を榻の下で殺して女に逼《せま》った。女は悪漢の自由にならずに大声をたてて力いっぱいに抵抗した。悪漢は怒《いか》って女の頭を切り落して逃げた。女の母の呉夫人が、隣の室のさわぎを微かに聞きつけて、婢を呼んで見に往かした。婢は女の死骸を見て気絶した。そこで大騒ぎになって家の者が皆起き、女の死骸を表座敷に移して、その頭を合わせるようにして置き、皆で泣きながら終夜ごたごたと騒いだ。
 朝になって女の死骸にかけた衾《ふとん》を開けてみると頭がなくなっていた。呉侍御は怒って侍女達を鞭でたたいてせめた。
「きさま達の番のしかたが悪いから、犬に喰われたのだ」
 呉侍御は郡守に訴えた。郡守は日を限って賊を探したが、三箇月しても捕えることができなかった。そのときになって朱の家の細君の頭の換ったことを呉侍御にいう者があった。呉侍御は不審に思って、媼《ばあや》を朱の家ヘやって探らした。媼は朱の家へ往って細君の顔を一眼見て、駭いて帰ってきて呉侍御に告げた。呉侍御は女の死骸が依然としてあるのに、頭だけが生きていて他人の細君の頭とかわるというようなことはあるべきはずのものでないと思ったが、しかし朱が怪しい術を行う者であって、自分の女を殺したかもわからないと疑えば疑われないこともないので、自分から出かけて往って朱に詰問した。
「お前が殺して左道《さどう》へかえたものだろう」
 朱は言った。
「妻は睡っていてかえられたものです、実に不思議ですが、その理由がわからないのです、僕が殺したというのは冤罪《えんざい》です」
 呉侍御は朱の言葉を信《まこと》にできないので訴えた。郡守は朱の家の者を捕えて詮議をしたが、皆朱の言ったと同じ申立てであるから、どうすることもできなかった。朱は郡守の許《もと》から帰って陸に謀《はかりごと》を問うた。
「どうしたらいいだろう」
 陸は言った。
「なんでもないよ、呉侍御の女に言わしたらいいよ」
 その夜呉侍御の夢に女があらわれて、
「私を殺したのは、蘇渓《そけい》の揚大年《ようたいねん
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