出した。
「これをあげるから、何人にも知らさずに、一枚は髪の中へ挟み、一枚は今晩|三更《よなか》に焼くがいい」
許宣はそれをもらうと朋友に別れて家へ帰り、一枚は頭の髪に挟み、一枚は三更になって焼こうと思って、白娘子に知らさずに時刻のくるのを待っていた。
「あなたは、また私を疑って、符を焼こうとしていらっしゃるのですね、こうして、もう長い間、いっしょにいるのに、どこが怪しいのです、あんまりじゃありませんか」
傍にいた白娘子が不意に怒りだした。許宣はどぎまぎした。
「いや、そんなことはない、そんなことがあるものか」
白娘子の手が延びて許宣の袖に中に入れてあった符にかかった。白娘子はその符を傍の灯の火に持っていって焼いた。符はめらめらと燃えてしまった。
「どう、これでも私が怪しいのですの」
白娘子は笑った。許宣はしかたなしに分弁した。
「臥仏寺前の道人がそう言ったものだから、彼奴《あいつ》俺をからかったな」
「ほんとに道人がそんなことを言ったなら、明日二人で往ってみようじゃありませんか、怪しいか怪しくないか、すぐ判るじゃありませんか」
翌日許宣と白娘子は、伴れ立って臥仏寺の前へ往った。臥仏寺の境内はその日も参詣人で賑わっていた。かの道人の店頭にも一簇の人が立っていた。白娘子はその道人がかの道人だということを教えられると、そのまま走って往った。
「この妖道士、人をたぶらかすと承知しないよ」
符水《ふすい》を参詣人の一人にやろうとしていた道人はびっくりして顔をあげた。そして、白娘子の顔をじっと見た。
「この妖怪《ばけもの》、わしは五雷天心正法《ごらいてんしんしょうほう》を知っておるぞ、わしのこの符水を飲んでみるか、正体がすぐ現われるが」
白娘子は嘲るように笑った。
「ちょうどいい、ここに皆さんが見ていらっしゃる、私が怪しい者で、お前さんの符水がほんとうに利《き》いて、私の正体が現われるというなら飲みましょうよ、さあください、飲みますよ」
「よし飲め、飲んでみよ」
道人は盃に入れた水を白娘子の前へ出した。白娘子はそれを一息に飲んで盃を返して笑った。
「さあ、そろそろ正体が現われるのでしょうよ」
許宣をはじめ傍にいた者は、またたきもせずに白娘子の顔を見ていたが、依然としてすこしも変らなかった。
「さあ、妖道士、どこに怪しい証拠がある、どこが私が怪しいのだ」
道人は眼を瞠って呆れていた。
「つまらんことを言って、夫婦の間をさこうとするのは、けしからんじゃありませんか、私がこれから懲らしてあげる」
白娘子はそう言って口の裏で何か言って唱えた。と、かの道人は者があって彼を縄で縛るように見えたが、やがて足が地を離れて空にあがった。
「これでいい、これでいい」
そう言って白娘子が口から気を吐くと道人の体は地の上に落ちた。道人は起きあがるなりどこともなく逃げて往った。
四月八日の仏生日《たんじょうび》がきた。許宣が興が湧いたので、承天寺へ往って仏生会《ぶっしょうえ》を見ようと思って白娘子に話した。白娘子は新しい上衣と下衣を出してそれを着せ、金扇を持ってきた。その金扇には珊瑚の墜児《たま》が付いていた。
「早く往って、早く帰っていらっしゃい」
そこで許宣は承天寺へ往った。寺の境内には演劇《しばい》などもかかって賑わっていた。許宣は参詣人の人波の中にもまれて彼方此方していたが、そのうちに周将仕家《しゅうしょうしけ》の典庫《しちぐら》の中へ賊が入って、金銀珠玉衣服の類を盗まれたという噂がきれぎれに聞えてきたが、自分に関係のないことであるからべつに気にも止めなかった。
「もし、もし、ちょっとその扇子を見せてください」
許宣と擦れ違おうとした男がふと立ちどまるとともに、許宣の扇子を持った手を掴んだ。許宣はびっくりしてその男の顔を見た。男は扇子と扇子につけた珊瑚の墜児をじっと見てから叫んだ。
「盗人《どろぼう》、盗人をつかまえたから、皆来てくれ」
許宣はびっくりして分弁《いいわけ》しようとしたがその隙がなかった。彼の体にはもう縄がひしひしと喰いいってきた。彼はその場から府庁に曳かれて往った。
「その方の衣服と扇子は、それで判っておるが、その余の贓物《ぞうぶつ》は、どこへ隠してある、早く言え、言わなければ、拷問にかけるぞ」
許宣は周将仕家の典庫の盗賊にせられていた。
「私の着ている衣服も、持っている扇子も、皆家内がくれたもので、決して盗んだものではありません」
府尹《ふいん》は怒って叱った。
「詐りを言うな、その方がいくら詐っても、その衣服と扇子が確かな証拠だ、それでも家内がくれたというなら、家内を伴れてくる、どこにおる」
「家内は吉利橋の王主人の家におります」
「よし、そうか」
府尹は捕卒に許宣を引き立てて王主人の家へ往かした。家にいた王主人は、許宣が捕卒に引き立てられて入ってきたのを見てびっくりした。
「どうしたというのです」
「あの女にひどい目に逢わされたのです、今家におりましょうか」
許宣は声を顫《ふる》わして怒った。
「奥様は、あなたの帰りが遅いと言って、婢さんと二人で、承天寺の方へ捜しに往ったのですよ」
捕卒は白娘子の代りに王主人を縛って許宣といっしょに府庁へ伴れて往った。堂の上には府尹が捕卒の帰るのを待っていた。府尹は白娘子を捕えてきた後に裁判をくだすことにした。府尹の傍には周将仕がきてその将来《なりゆき》を見ていた。
そこへ周将仕の家の者がやってきた。それは盗まれたと思っていた金銀珠玉衣服の類が、庫の空箱の中から出てきたという知らせであった。周将仕はあわただしく家へ帰って往ったが、家の者が言ったように盗まれたと思っていたものはみなあった。ただ扇子と墜児はなかったが、そんな品物は同じ品物が多いので、そればかりでは許宣を盗賊とすることができなかった。周将仕は再び府庁へ往ってそのことを言ったので、許宣は許されることになったが、許宣を置く地方が悪いということになって、鎮江の方へ配を改められた。
そこで許宣は鎮江へ送られることになったところへ、折よく杭州から邵大尉の命で李幕事が蘇州へ来た。李幕事は王主人の家へ往って許宣が配を改められたことを聞くと、鎮江の親類へ手簡を書いて、それを許宣に渡した。鎮江の親類とは、親子橋の下に薬舗を開いている李克用《りこくよう》という人の許であった。
許宣は護送人といっしょに鎮江へ往って、李克用の家へ寄った。李克用は親類の手簡を見て、護送人に飯を喫《く》わし、それからいっしょに府庁へ往って、それぞれ金を使って手続をすまし、許宣を家へ伴れてきた。
許宣は李克用の家へおちつくことができた。心がおちついてくるとともに彼は恐ろしい妖婦に纏わられている自分の不幸を思いだして、悲しみも憤りもした。李克用は許宣が杭州で薬舗の主管《ばんとう》をしていたことを知ったので、仕事をさしてみると、することがしっかりしていて、あぶなかしいと思うことがなかった。
そこで主管にして使うことにしたが、他の店員に妬《ねた》まれてもいけないと思ったので、許宣に金をやって店の者を河の流れに臨んだ酒肆《さかや》へ呼ばした。
やがて酒を飲み飯を喫って皆が帰って往ったので、許宣は後で勘定をすまして一人になって酒肆を出たが、苦しくない位の酔があって非常に好い気もちであった。彼は夕暮の涼しい風に酒にほてった頬を吹かれて家いえの簷の下を歩いていた。
一軒の楼屋《にかいや》があってその時窓を開けたが、そのひょうしに何か物が落ちてきてそれが許宣の頭に当った。許宣はむっとしたので叱りつけた。
「この馬鹿者、気を注けろ」
楼屋の窓には女の顔があった。女は眼を落してじっと許宣の顔を見たが、何か言って引込んだ。許宣が不思議に思っていると、かの女は門口からあたふたと出てきた。それは白娘子であった。
「この妖婦、また来て俺を苦しめようとするのか、今度はもう承知しない、つかまえて引きわたすからそう思え」
白娘子は眼に笑っていた。
「まあそんなにおっしゃらないで、私の言うことを聞いてくださいよ、二度もあなたをまきぞえにしてすみませんが、あの衣服と扇子は、私の先の夫の持っていたものですよ、決して怪しいものじゃありません、だから疑いが晴れたじゃありませんか」
「それじゃ、俺が王主人の処へ帰った時に、何故いなかったのだ」
「それは、あなたの帰りが遅いものですから、婢と二人であなたを捜しに往ったところで、あの騒ぎでしょう、私は恐ろしくなったから、船で婢の母の兄弟のいる、この家へ来ていたのです」
許宣の白娘子に対する怒りは解けた。許宣は白娘子に随いてその家へ往ってそこに一泊したが、それからまた元のとおりの夫婦となった。
そのうちに李克用の誕生日がきた。許宣夫婦も進物を持って李家へ祝いに往った。李克用は筵席《えんせき》を按排《あんばい》して親友や知人を招いていた。
この李克用は一個の好色漢であった。彼は白娘子を一眼見てたちまちその本性を現わした。白娘子が東厠《べんじょ》へ往ったことを知ると、そっと席をはずして後からつけて往った。そして、花のような女のその中にいることを想像してそっと内へ入った。内には桶の胴のような大きな白い蛇がとぐろを捲いていた。その蛇の両眼は燈盞《かわらけ》のように大きくて金光を放って輝いていた。李克用はびっくりして逃げだしたが、逃げるひょうしに躓《つまず》いて倒れてしまった。
李克用の家に養われている娘が、李克用の倒れて気絶しているのを見つけた。家の内は大騒ぎになって皆が集まってきた。そして、薬を飲ましたりして介抱しているとやっと気が注いた。家の者がどうしたかと言って訊くと、彼は連日の疲れで体を痛めたためだと言った。
李克用の気もちが好くなったので、宴席も元のとおりになったが、やがてその席も終って客は帰って往った。白娘子はいつの間にか家へ帰っていたが、許宣に話したいことがあるのかそっと舗へ来た。
「今晩は、みょうに気もちがわるいから、来たのですよ」
「今晩は御馳走になっていい気もちじゃないか」
「いい気もちじゃありませんよ、あなたは、ここの旦那を老実な方だと言いましたが、どうしてそうじゃありませんよ、私が東厠へ往ってると、後からつけてきて手籠めにしようとしたのです、ほんとに厭な方ですよ」
「しかし、べつにどうせられたというでもなかろう、まあいいじゃないか、早く帰ってお休みよ」
「でも、私はあの旦那が恐いわ、これからさき、まだどんなことをせられるか判らないのですもの、それよりか、私が二三十両持ってますから、ここを出て、碼頭《はとば》のあたりで、小さな薬舗を開こうじゃありませんか」
許宣も人の家の主管をして身を縛られているよりも、自由に自分で舗を持ちたかった。彼は白娘子の詞に動かされた。
「そうだな、小さな舗が持てるなら、そりゃその方がいいが」
「では持とうじゃありませんか」
「そうだね、持ってもいいな、じゃ、暇をくれるかくれないか、明日旦那に願ってみよう」
許宣は翌日李克用に相談した。李克用は自分の弱点があるうえに奇怪な目に逢っているので、許宣の言うことに反対しなかった。そこで許宣は白娘子と二人で、碼頭の傍へ手ごろの家を借りて薬舗をはじめた。許宣ははじめて一家の主人となっておちつくことができた。
七月の七日になった。その日は英烈竜王の生日《えんにち》であった。許宣は金山寺へ焼香に往きたいと思って、再三白娘子に同行を勧めたが白娘子は往かなかった。
「あなた一人で往ってらっしゃい、しかし、方丈へ往ってはいけないのですよ、あすこには、坊主が説経してますから、きっと布施を取られますよ、いいですか、きっと方丈へ往ってはいけないのですよ」
許宣は独りで往くことにして、舟を雇い、上流約一里の処にある金山寺の島山へ往った。揚子江の赤濁りのした流れを上下して、金山寺へ往来する参詣人の舟が水鳥の群のように浮んでいた。京口瓜州一水《きょうこうかしゅういっすい》の間、前岸瓜州《ぜんがんかしゅう》の楊柳は青々として見えた。
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