て、こんなに大きくなりましたが、その御厄介ついでに、も一つお願いしなくてはならないことがあります、私は、婚礼したいと思います」
「婚礼か、婚礼は大事だから、一つ考えて置こう、なあお前」
 李幕事は細君の顔を見たが、それっきり婚礼のことに就いては何も言わなかった。もすこし具体的な話をしようと思っていた許宣は、もどかしかったがどうすることもできなかった。
 酒がすむと李幕事は逃げるように室を出て往った。許宣はしかたなしに李幕事の返辞を待つことにして待っていたが、二日経っても三日経っても何の返辞もなかった。そこで許宣は姐の処へ往った。
「姐さん、この間のことを、兄さんと相談してくれましたか」
「まだしてないよ」
「なぜしてくれないのです」
「兄さんが忙しかったからね」
「忙しいよりも、兄さんは、私が婚礼すると、金がかかると思って、それで逃げてるのじゃないでしょうか、金のことなら大丈夫ですよ、ありますから」
 許宣はそう言って袖の中から五十両の銀《かね》を出して姐の手に渡した。
「一銭も兄さんに迷惑はかけませんよ、ただ親元になって、儀式をあげてもらえばそれでいいのですよ」
 姐は金を見て笑顔になった。
「おかしいね、お前はどっかのお婆さんと婚礼するのじゃないかね、まあいいわ、私がこれを預ってて、兄さんが帰ってきたなら、話をしよう」
 許宣はそれから姐の室を出てきた。姐はその夜李幕事の帰ってくるのを待っていて、許宣の置いて往った金を見せた。
「あれは、何人かと約束しているのですよ、親元になって、儀式さえあげてやればいいのですよ、早く婚礼をさそうじゃありませんか」
「じゃ、この金は、女の方からもらったのだね」
 李幕事はそう言って銀を手に取りあげた。そして、その銀の表に眼を落した。
「た、たいへんだ」
 李幕事は眼を一ぱいに瞠って驚いた。
「何を、そんなにびっくりなさるのです」
 細君には合点がいかなかった。
「この金は、邵大尉《しょうたいい》の庫の金だ、盗まれた金なのだ、庫の内へ入れてあった金が、五十錠なくなっているのだ、封印はそのままになってて、内の金がなくなっているのだ、臨安府《りんあんふ》では五十両の賞をかけて、その盗人を探索しているところなのだ、宣には気の毒だがしかたがない、我家《うち》から訴えて出よう、これが他から知れようものなら、一家の者は首がない、こいつは豪《えら》いことになったものだ」
 李幕事は朝になるのを待ちかねて、許宣の置いて往った金を持って臨安府へ往った。府では韓大尹《かんたいいん》が李幕事の出訴を聞いて、銀を一見したところで、確かに盗まれた銀錠であるから、時を移さず捕卒をやって許宣を捉えさせ、それを庁前に引据えて詮議をした。
「李幕事の訴えによって、その方が邵大尉の庫の中の金を盗んだ盗賊と定まった、後の四十九錠の金はどこへ隠した、包まずに白状するがよかろう」
 捕卒がふみこんできた時から、もう気が転動して物の判別を失っていた許宣は、邵大尉庫中の盗賊と言われて、はじめて自分に重大な嫌疑のかかっていることを悟った。
「私は、決して、人の物を盗むような者ではありません、それは人違いです」
 許宣は一生懸命になって分弁《いいわけ》をした。
「いつわるな、その方が邵大尉の庫の中から金を盗んだということは、その方が姐に預けた、五十両の金が証拠だ、あの金はどこにあったのじゃ」
「あの金は、荐橋《そんきょう》の双茶坊《そうさぼう》の秀王墻《しゅうおうしょう》対面《たいめん》に住んでおります、白という女からもらいました」
 許宣はそこで白娘子と近づきになったことから、結婚の約束をするようになったいきさつを精《くわ》しく話した。その許宣の詞《ことば》には詐りもないようであるから、韓大尹は捕卒をやって白娘子を捉えさした。
 捕卒は縄つきのままで許宣を道案内にして双茶坊へ往って、秀王墻の前になって高い墻《へい》に囲まれた黒い楼房《にかいや》の前へ往った。それはもう古い古い家で、人が住んでいそうには思われなかった。許宣は不思議に思って眼を瞠っていた。捕卒の一人は隣家へ走って往ってその家の事情を聞いてきた。それは毛巡検《もうじゅんけん》という者の住んでいた家で、五六年前に瘟疫《はやりやまい》で一家の者が死に絶えて、今では住んでいる者はないはずであるが、それでも時どき童子《こども》が出てきて東西《もの》を買うのを見たことがあるから、何人かが住んでいるだろうが、しかし、この地方には白という姓の者はないという事であった。
 捕卒は家の前へ立って手筈を定め、門を開いて入って往った。扉はなくなり簷《のき》は傾き、磚《しきがわら》の間からは草が生え茂って庭内はひどく荒れていて、二三日前に見た家屋の色彩はすこしもなかった。許宣は驚くばかりであった。
 捕卒は別れ別れになって室の中へ入った。荒れ崩れて陰々として見える室の中には、人の足音を聞いて逃げる鼠の姿があるばかりで、どこにも人の影はなかった。別れていた捕卒はいつの間にかいっしょになって、最後の奥まった離屋《はなれ》に往った。そこは一段高い室になって、一人の色の白い女が坐っていた。着物の赤や青の綺麗な色彩が見えた。その女は牀《こしかけ》の上に坐っているらしかった。捕卒は不審しながら進んで往った。
「われわれは、府庁《やくしょ》からまいった者だが、その方は何者だ、白氏なら韓大爺《かんたいや》の牌票《はいひょう》がある、その方が許宣にやった銀のことに就いて尋ねることがあるから、いっしょに伴れて往く」
 女はじっと顔をあげたが、何も言わなければ驚いた容子もなかった。
「あのおちつきすましたところは、曲者だ、捉えろ」
 捕卒は一斉に走りかかって往った。と、同時に雷のような一大音響がした。捕卒はびっくりしてそこへ立ち縮んだ。そして、気が注いて女の方を見た。女の姿はもう見えなかった。捕卒は逃がしてはならないと思って、今度は腹を定めて室の内へ飛びこんで往った。女の姿は依然として見えなかったが、牀の傍に銀の包みを積みあげてあった。それは紛失していたかの四十九個の銀錠であった。
 捕卒は銀錠を扛《と》って臨安府の堂上へ搬んできた。許宣はそこで盗賊の嫌疑は晴れたが、素性の判らない者から私《ひそか》に金をもらったというかどで、蘇州へ配流《ついほう》せられることになった。
 一方邵大尉の方では、約束の通り懸賞金五十両を出してそれを李幕事に与えたが、李幕事は義弟に苦痛を見せることによって得た金であるから、心苦しくてたまらないので、牢屋の内にいる許宣に面会して、その金を旅費に与え、李将仕《りしょうし》と相談して、二つの手簡《てがみ》を持って往かすことにした。その手簡の一つは、蘇州の押司《おうし》の范院長《はんいんちょう》という者に与えたもので、一つは吉利橋下《きちりきょうか》に旅館をやっている王という者に与えたものであった。
 その日になると許宣は二人の護送人に連れられて牢屋を出た。府庁の門口には李幕事夫婦をはじめ、李将仕などが来て待っていた。許宣は涙を滴《こぼ》してその人びとに別れの詞をかわして出発した。
 三日ばかりして蘇州府へ着いた。李将仕の手簡を見た范院長と王主人は、金を使って奔走したので、許宣は王主人の許へ預けられることになった。

 許宣は王主人の許に世話になってから半年ばかりになった。彼はそこで毎日|無聊《ぶりょう》に苦しめられていた。と、ある日、王主人が室へ入ってきた。
「轎に乗った女がきて、お前さんを尋ねている、了鬟《じょちゅう》も一人|伴《つ》れている」
 許宣は心当りはなかったが、好奇《ものずき》に門口へ出てみた。門口にはかの白娘子と青い上衣を着た小婢が立っていた。許宣は驚きと怒りがいっしょになって出た。
「この盗人《どろぼう》、俺をこんな目に逢わしておいて、またここへ何しに来たのだ」
「私は、決して、そんな悪いものではありません、それをあなたに分弁《いいわけ》したくてまいりました」
 白娘子は心もち綺麗な首を傾げてさも困ったというようにした。
「いくら俺をだまそうとしたって、もうその手に乗るものかい、この妖怪《ばけもの》」
 許宣の後から出てきた王主人は、許宣に門前でやかましく言われては、隣家へつけてもていさいがわるいので、その傍へ往って言った。
「遠くからいらした方らしいじゃないか、まあ内へ入れて、話をしたらどうだね」
 王主人はそう言ってから白娘子の方を見た。
「さあ、どうかお入りください」
 白娘子は体を動かそうとした。許宣がその前に立ち塞がった。
「こいつを、家の中へ入れてはだめです、こいつが、私を苦しめた妖怪《ばけもの》です」
 白娘子は小婢の方を見て微笑した。王主人は女のそうした綺麗なやさしい顔を見て疑わなかった。
「こんな妖怪があるものかね、まあいい、後で話をすれば判る、さあお入りなさい」
 許宣は王主人がそういうものを、自分独りで邪魔をするわけにもいかないので、自分で前に入って往った。白娘子は小婢を伴れて王主人に随いて内へ入った。家の内では王主人の媽媽《にょうぼう》が入ってくる白娘子のしとやかな女ぶりに眼を注けていた。白娘子は媽媽におっとりした挨拶をした後で、傍に怒った顔をして立っている許宣を見た。
「私は、あなたに、この身を許しているじゃありませんか、どうして、あなたを悪いようにいたしましょう、あの銀は、今考えてみますと、私の先の夫です、私はすこしも知らないものですから、あなたにさしあげてあんなことになりました、私はそれを言いたくてあがりました」
 許宣にはまだ一つ不思議に思われることがあった。
「臨安府の捕卒が往った時、あなたは牀の上にいて、大きな音がするとともに、いなくなったじゃありませんか、あれはどうしたのです、おかしいじゃないか」
 白娘子は笑声を出した。
「あれは婢《じょちゅう》に言いつけて、板壁を叩かしたのですよ、その音で捕卒がまごまごしてよりつかなかったから、その隙に逃げて、華蔵寺前の姨娘《おばさん》の家に隠れていたのです、あなたはちっとも、私のことなんか考えてくださらないで、あべこべに私を妖怪あつかいにするのですもの、でも私はあなたの疑いさえ解けるならいいのです、これで失礼いたします」
 白娘子は小走りに走って外へ出ようとした。王主人の媽媽があわてて走って往って止めた。
「まあ、遠い処をいらしたのですから、二三日お休みになって、もっとお話しするがいいじゃありませんか」
 白娘子は引返しそうにしなかった。小婢が傍から言った。
「奥さん、御親切にあんなに言ってくださいますから、もすこしお考えなすったら如何です」
 白娘子は小婢の方を見た。
「でも、あの方は、もう私のことなんか、思ってくださらないのですもの」
 王主人の媽媽は白娘子を放そうとしなかった。
「もうすっかり事情も判ったのですから、許宣さんだって、いつまでも判らないことは言わないですよ」
 許宣はもう白娘子に対する疑念が解けていた。王主人の媽媽は、白娘子を許宣の室へ伴れて往った。許宣と白娘子はその夜から夫婦となった。

 許宣の許へ白娘子が来てからまた半年ばかりになった。ある日、それは二月の中旬のことであった。許宣は二三人の朋友と散策して臥仏寺《がふつじ》へ往った。その日は風の暖かな佳い日であったから参詣人が多かった。許宣の一行は、その参詣人に交って臥仏の前へ往き、それから引返して門の外へ出た。そこには売卜者《えきしゃ》や物売る人達が店を並べていた。その人びとの間に交って一人の道人が薬を売り符水《ふすい》を施していた。道人は許宣の顔を見ると驚いて叫んだ。
「あなたの頭の上には、一すじの邪気が立っている。あなたの体には、怪しい物が纏《まと》うている、用心しなくては命があぶない」
 許宣は非常に体が衰弱して気分がすぐれなかった。それに白娘子に対して抱いている疑念もあった。彼はそれを聞くと恐ろしくなった。地べたに頭をすりつけるようにして言った。
「どうか私を助けてください」
 道人は頷いて符《ふだ》を二枚
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