、それではあんまりでございますから、もう婢がまいりましょうから」
「なに、いいのです、私は、もう、すぐそこですから、傘をさすほどのことはないのです、さあお持ちなさい、傘は私が明日でも取りにあがりますから」
「でも、あんまりですわ」
「なに、いいのです」
 許宣は強いて柄《え》を女の前へ持っていった。
「ではすみませんが、拝借いたしましょうか、私の家は荐橋《そんきょう》の双茶坊《そうさぼう》でございます」
 女は細そりした長い指を柄にからませた。
「そうですか、それではまたお眼にかかります」
 許宣は女に気をもまさないようにと、傘を渡すなり簷下に添うてとかとかと歩きだした。それといっしょに女も簷下を離れて石を敷いた道の上へ出て往った。

 許宣はその夜寝床に入ってからも白娘子《はくじょうし》のことを考えていた。綺麗な眼鼻立の鮮やかな女の姿が心ありそうにして此方を見ていた。彼は誘惑に満ちた女の詞を一つ一つ思いだしていた。物の気配がして寝室の帳《とばり》を開けて入って来た者があった。許宣はびっくりしてその方へ眼をやった。そこには日間のままの白娘子の艶かしい顔があった。許宣は嬉しくもあればきまりもわるいので、何か言わなくてはわるいと思ったが、言うべき詞が見つからなかった。
 女は寝床の上にいつの間にかあがってしまった。許宣は呼吸《いき》苦しいほどの幸福に浸っていたが、ふと気が注くとそれは夢であった。
 翌朝になって許宣はいつものように早くから鋪《みせ》へ往ったが、白娘子のことが頭に一ぱいになっていて仕事が手につかないので、午飯《ひるめし》の後で口実をこしらえて舗を出て、荐橋の双茶坊へ往った。
 許宣はそうして白娘子の家を訪ねて歩いたが、それらしい家は見つからなかった。人に訊いても何人《だれ》も知っている者はなかった。許宣は場処の聞きあやまりではないかと思って考えてみたが、どうしても双茶坊であるから、やめずに町の隅から隅へと訪ねて往った。しかし、それでもどうしてもそうした家がなかった。彼はしかたなしに諦めて、くたびれた足を引擦るようにして帰りかけた。東西になった街の東の方から青い上衣の小婢が来た。
「おや、いらっしゃいまし」
「傘をもらっていこうと思って、今、来たところですが、どこです」
 許宣は腹の裏を見透かされるように思って長い間探していたとは言えなかった。彼はそうして小婢に伴《つ》れられて歩いた。
 大きな楼房《にかいや》があって高い牆《へい》を四方に廻《めぐ》らしていた。小婢はその前へ往ってちょっと足を止めて許宣の顔を見た。
「ここですわ」
 許宣はこんな大きな家に住んでいる人が何故判らなかったろうと思って不審した。彼はそのまま小婢に随《つ》いてそこの門を潜った。
 二人は家の内へ入って中堂《ざしき》の口に立った。
「奥様、昨日御厄介になった方が、いらっしゃいました」
 小婢が内へ向いて言った。すると内から白娘子の声がした。
「そう、では、此方へね、さあ、あなた、どうかお入りくださいまし」
 白娘子の詞に随いて小婢が言った。
「さあ、どうかお入りくださいまし」
 許宣はきまりがわるいので躊躇していた。小婢が追いたてるように促した。
「奥様もあんなにおっしゃってますから、どうぞ」
 許宣はそこで心を定めて入った。室《へや》の両側は四扇《しまいびらき》の隔子《とびら》になって、一方の狭い入口には青い布《きぬ》の簾《とばり》がさがっていた。小婢は白娘子に知らすためであろう、その簾を片手で掲げて次の室へ往った。許宣はそこに立って室の容子を見た。中央の卓の上に置いた虎鬚菖蒲《はしょうぶ》の鉢がまず女の室らしい感じを与えた。そして、両側の柱には四幅の絵を挂《か》けて、その中間になった処にも何かの神の像を画いた物を挂けてあった。神像の下には香几《こうづくえ》があって、それには古銅の香炉と花瓶を乗せてあった。
 白娘子が濃艶な顔をして出てきた。許宣はなんだかもう路傍の人でないような気がしていたが、その一方では非常にきまりがわるかった。
「よくいらっしゃいました、昨日はまたいろいろ御厄介になりまして、ありがとうございました」
「いや、どういたしまして、今日はちょっとそこまでまいりましたから、お住居はどのあたりだろうと思って、何人かに訊いてみようと思ってるところへ、ちょうど婢《じょちゅう》さんが見えましたから、ちょっとお伺いいたしました」
 二人が卓に向きあって腰をかけたところで、小婢が茶を持ってきた。許宣はその茶を飲みながらうっとりした気もちになって女の詞を聞いていた。
「では、これで……」
 許宣は動きたくはなかったが、いつまでも茶に坐っているわけにゆかなかった。腰をあげたところで、小婢が酒と菜蔵果品《さかな》を持ってきた。
「何もありませんが、お一つさしあげます」
「いや、そんなことをしていただいてはすみません、これで失礼いたします」
「何もありません、まあお一つ、そうおっしゃらずに」
 許宣は気のどくだと思ったが女の傍にいたくもあった。彼はまた坐って数杯の酒を飲んだ。
「これで失礼いたします、もうだいぶん遅くなったようですから」
 許宣は遅くなったことに気が注いたので、思い切って帰ろうとした。
「もうお止めいたしますまいか、あまり何もありませんから、それでは、もう、ちょっとお待ちを願います。昨日拝借したお傘を、家の者が知らずに転貸《またがし》をいたしましたから、すぐ取ってまいります、お手間は取らせませんから」
 許宣はすぐ今日もらって往くよりは、置いていく方がまたここへ来る口実があっていいと思った。
「なに、傘はそんなに急ぎませんよ、また明日でも取りにあがりますから、今日でなくってもいいのです」
「では、明日、私の方からお宅へまでお届けいたしますから」
「いや、私があがります、店の方も隙ですから」
「では、お遊びにいらしてくださいまし、私は毎日相手がなくて困っておりますから」
「それでは明日でもあがります、どうも御馳走になりました」
 許宣は白娘子に別れ、小婢に門口まで見送られて帰ってきたが、心はやはり白娘子の傍にいるようで、自分で自分を意識することができなかった。そして、翌日舗に出ていても仕事をする気になれないので、また口実を設けて外へ出て、そのまま双茶坊の白娘子の家へ往った。
 許宣の往く時間を知って待ちかねていたかのように小婢が出てきた。
「ようこそ、さあどうかお入りくださいまし、今、奥様とお噂いたしておったところでございます」
「今日は傘だけいただいて帰ります。傘をください、ここで失礼します」
 許宣はそう言ったものの早く帰りたくはなかった。彼は白娘子が出てきてくれればいいと思っていた。
「まあ、そうおっしゃらずに、ちょっとお入りくださいまし」
 小婢はそう言ってから内へ入って往った。許宣は小婢が白娘子を呼びに往ったことを知ったので嬉しかった。彼は白娘子の声が聞えはしないかと思って耳を傾けた。
 人の気配がして小婢が引返してきた。小婢の後から白娘子の顔が見えた。
「さあ、どうぞ、お入りくださいまし、もしかすると、今日いらしてくださるかも判らないと思って、朝からお待ちしておりました」
「今日はもうここで失礼します、毎日お邪魔をしてはすみませんから」
「私の方は、毎日遊んでおりますから、お客さんがいらしてくださると、ほんとに嬉しゅうございますわ、お急ぎでなけりゃ、お入りくださいましよ」
「私もべつに用事はありませんが、毎日お邪魔をしてはすみませんから」
「御用がなけりゃ、どうかお入りくださいまし、さあ、どうか」
 許宣はきまりわるい思いをせずに、白娘子に随いて昨日の室へ往くことができた。室へ入って白娘子と向き合って坐ったところで、小婢がもう酒と肴を持ってきた。
「もうどうぞ、一本の破傘のために、毎日そんなことをしていただいては、すみません、今日はすぐ帰りますから、傘が返っているならいただきます」
 許宣はなんぼなんでも一本の傘のことで、二日も御馳走になることはできないと思った。
「まあ、どうか、何もありませんが、召しあがってくださいまし、お話ししたいこともございますから」
 白娘子はそう言って心持ち顔をあからめた。それは夢に見た白娘子の艶かしい顔であった。許宣は卓の上に眼を落した。
「さあ、おあがりくださいまし、私もいただきます」
 白娘子の声に随いて許宣は盃を口のふちへ持っていったが、何を飲んでいるか判らなかった。許宣はそうして自分の顔のほてりを感じた。
「さあ、どうぞ」
 許宣は白娘子の言うなりに盃を手にしていたが、ふと気が注くとひどく長座したように思いだした。
「何かお話が、……あまり長居をしましたから」
「お話ししたいことがありますわ、では、もう一杯いただいてくださいまし、それでないと申しあげにくうございますから」
 白娘子はそう言って許宣の眼に自分の眼を持ってきた。それは白いぬめぬめする輝きを持った眼であった。許宣はきまりがわるいので盃を持ってそれをまぎらした。同時に香気そのもののような女の体が来て、許宣の体によりかかった。
「神の前でお話しすることですから、決して冗談じゃありませんから、本気になって聞いてくださいまし、私は主人を没くして、独りでこうしておりますが、なにかにつけて不自由ですし、どうかしなくちゃならないと思っていたところで、あなたとお近づきになりました、私はあなたにお願いして、ここの主人になっていただきたいと思いますが」
 貧しい孤児の前に夢のような幸福が降って湧いた。許宣は喜びに体がふるえるようであったが、しかし、貧しい自分の身を顧みるとこうした富豪の婦人と結婚することは思いもよらなかった。彼はそれを考えていた。
「お厭でしょうか、あなたは」
 許宣はもう黙っていられなかった。彼は吃るように言いだした。
「そんなことはありませんが、私は、家もない、何もない、姐の家に世話になって、それで、日間は親類の鋪へ出ているものですから」
「他に御事情がなければ、他に御事情があればなんですが、そんなことなら私の方でどうにでもいたしますから」
 そう言って白娘子は顔をあげて婢を呼んだ。小婢がもうそこに来ていた。白娘子は何か小声で言いつけた。
 小婢はそのまま室を出て往ったが、まもなく小さな包みを持ってきて白娘子に渡した。白娘子はそれをそのまま許宣の前へ置いた。
「これを費用にしてくださいまし、足りなければありますから、そうおっしゃってくださいまし」
 それは五十両の銀貨であった。許宣は手を出さなかった。
「それをいただきましては」
「いいじゃありませんか、費用ですもの」
 白娘子はそれを許宣の手に持っていった。許宣は受けて袖の中へ入れた。
「それでは、今日はもう遅いようですから、お帰りになって、またいらしてくださいまし」
 小婢がそこへ傘を持って出てきた。許宣はふらふらと起って傘を持って出た。


 許宣は夜になって姐の許へ帰って、結婚の相談をしようと思ったが、人生の一大事のことをせけんばなしのようにして話したくないので、その晩は何も言わずに寝て、翌朝起きるなりそれまで貯えてあった僅な銭を持って市場へ往き、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の肉や鵞《がちょう》の肉、魚、菓実《くだもの》、一樽の佳い酒まで買ってきて、それを自分の室へ並べて李幕事夫婦を呼びに往った。
「今朝は、私の処で御飯を喫《た》べてください」
 李幕事夫婦は不思議に思いながら許宣の室へ来たが、卓の上の御馳走を見るとまた驚いた。
「今日は、ぜんたいどうしたというのだ、へんじゃないか」
 李幕事は突っ立ったなりに言った。
「すこしお願いしたいことがありますからね、どうか、まあお掛けください」
 許宣はとりすまして言った。
「どんなことだ、さあ言ってみるがいい」
「まあ、二三杯あがってください、ゆっくりお話しますから」
 許宣は李幕事夫婦に酒を勧めた。酒は二|巡《まわり》三巡した。許宣はそこで李幕事の顔を見た。
「私は、これまで御厄介をかけ
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