許宣は金山寺へあがって竜王堂へ往き、そこで焼香をすまして、彼方此方を歩いているうちに、多くの参詣人が和尚の説経を聞いている処へ往った。許宣はここが白娘子の往ってはいけないと言った方丈だと思った。彼は急いで方丈の中を出て往った。許宣の引返そうとする顔を説経していた和尚がちらと見た。
「あの眼に妖気がある、あれを呼べ」
侍者の一人が呼びに往ったが、許宣はもう山をおりかけていたので聞えなかった。すると和尚はいきなり禅杖を持ってたちあがるなり、許宣を追っかけて往った。
山の麓では大風が起って波が出たので、参詣人は舟に乗ることができずに困っていた。山をおりた許宣もその人びとに交って岸に立って風の静まるのを待っていた。と、一艘の小舟がその風の中を平気で乗切ってきて陸へ著けかけた。許宣は神業のような舟だと思って、ふいと見ると、その中に白娘子と小婢の二人が顔を見せていた。その白娘子と許宣の眼が合った。
「あなた、早くお乗りなさい、風が吹きだしたから、あなたを迎えにきたのです」
舟は同時に陸へ著いた。許宣は喜んで水際へおりた。許宣の後ろには許宣を追っかけてきた和尚がいた。
「この※[#「薛/子」、第3水準1−47−55]畜《ちくしょう》、ここへ来やがって何をしようというのだ」
和尚は舟の中を見て怒鳴りながら禅杖を振りあげた。と、白娘子と小婢は、そのまま水の中へもんどり打って飛び込んでしまった。許宣はびっくりして眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。そうして許宣は夢が覚めたようになった。
「あの和尚さんは、なんという和尚さんでしょう」
許宣は気が注いて傍の人に訊いた。
「あれが、法海禅師様だ、活仏《いきぼとけ》だ」
和尚の侍者が許宣を呼びにきた。許宣はそれに伴れられて和尚の前へ往った。
「お前さんは、あの女達とどこであわっしゃった」
許宣はそこではじめからのことを話した。和尚はそれを聞いて言った。
「宿縁だ、しかし、お前さんの欲念が深いからだ、だが、災難はもうすぎたらしい、これから杭州へ帰って、修身立命の人にならなくてはいけない、もし再びこんなことがあったら、湖南の浄慈寺《じょうじじ》に来てわしを尋ねるがいい、今、わしが偈《げ》を言って置くから、覚えているが宜い、本是れ妖蛇婦人に変ず、西湖岸上婦身を売る、汝欲重きに因って他計に遭う、難有れば湖南老僧を見よ、宜いかね、この偈を忘れないように」
許宣は法海禅師に別れて、身顫いしながら帰り、親子橋の李克用の家へ往った。李克用は許宣から白娘子の話を聞いて、はじめて誕生日の夜に見た妖蛇の話をした。そこで、許宣は碼頭《はとば》の家を畳んで再び李克用の家へうつったが、十日と経たないうちに朝廷から恩赦の命がくだって、十悪大罪を除く他の者は皆赦された。許宣もそれと同時に赦されたが、法海禅師の詞もあるから急いで杭州へかえって往った。
李幕事夫婦は許宣の帰ってくるのを待っていた。李幕事は許宣の挨拶が終るのを待って言った。
「お前も今度は、豪《えら》い目に逢った、私はお前が蘇州へ往く時も、蘇州から鎮江へ往く時も、できるだけのことをしてやったが、それでも苦しかったのだろう、それというのも、お前が一人でぶらぶらしてるからだ、はやく妻室《かない》をもらって身を固めるがいい、そうなれば怪しい者だって寄りつかない」
許宣はそれよりもじっとおちつきたかった。
「私は、もう懲りましたから、妻室はもらいません」
許宣のその詞が終るか終らないかに人声がして、そこへ入ってきた者があった。それは許宣の姐が白娘子と小婢を伴れてきたところであった。
「あなたは、妻室があるくせに、そんな嘘をいうものじゃありません、私はあなたの妻室じゃありませんか」
許宣はがたがた顫えだした。そして、声を顫わし顫わし言った。
「姐さん、そいつは妖精です、そいつのいうことを聞いてはいけないです」
白娘子は許宣の傍へ往った。
「あなたは、私と夫婦でありながら、人の言うことを聞いて私を嫌うとは、ひどいじゃありませんか、でも、私はあなたの妻室ですから、他へはまいりません」
白娘子は泣きだした。許宣は急いで起って李幕事の袖を曳いて外へ出た。
「あれが白蛇の精です。どうしたらいいのでしょう」
許宣はまだ口にしなかった鎮江に於ける怪異を話して聞かした。
「ほんとうに蛇なら、いい人がいる、白馬廟の前に、蛇捉《へびとり》の戴《たい》という先生がいる、この人に頼もうじゃないか」
李幕事は前に立って許宣を伴れて白馬廟の前へ往った。戴先生は折よく家の前に立っていた。
「お二方とも何か私に御用ですか」
李幕事はいそがしそうに言った。
「私の家へおおきな白蛇が来て、災をしようとしております、どうか捉ってください」
李幕事はそう言って腰から一両の銀を出して、戴先生の掌に載せた。
「今これだけさしあげておきます、もし捉ってくだすったら、後でまたべつにお礼をいたします」
戴先生は喜んで銀を収めた。
「では、すぐ後から準備《したく》をしてあがります。お二方は一足お前へ」
李幕事と許宣はすぐ帰った。戴先生は間もなく後から来たが、その手には雄黄《いおう》を入れた瓶と薬水を入れた瓶を持っていた。
「どこに白蛇がおります」
李幕事は白娘子のいる室を教えた。戴先生は教えられたとおりその室へ往ったが、室の扉は締っていた。戴先生は何かぶつぶつ言いながらその扉を開けようとしていると、扉は内から開いた。戴先生は内へ入って往った。内には桶の胴のような白い※[#「虫+(くさかんむり/天/廾)、146−7]蛇《うわばみ》がいて、それが燈盞《かわらけ》のような両眼を光らし、焔のような舌を出して、戴先生を一呑みにしようとするように口を持ってきた。戴先生は手にした瓶の落ちるのも知らずに逃げだした。
李幕事と許宣は戴先生の結果を見にきたところであった。戴先生は二人に往きあたりそうになって気が注いた。李幕事が言った。
「先生、捉れたでしょうか」
戴先生は呼吸をはずましていた。
「蛇なら捉れるが、あれは妖怪です、私はすんでのことに命を取られるところでした、あの銀はお返しします」
こう言って戴先生は逃げるように出て往った。李幕事と許宣は顔を見合わして困っていた。
「あなた、ここへいらしてください」
室の中から白娘子の声がした。許宣は体がぶるぶると顫えた。しかし、往かずにいてはどんなことをするかも判らないと思ったので、恐る恐る入って往った。中には白娘子が平生《いつも》と同じような姿で小婢と二人で坐っていた。
「あなたはほんとに薄情な方ですわ、あんな蛇捉の男なんか伴れてきて、あなたがそんなにわたしをいじめるなら、私にも考えがありますよ、この杭州一城の人達の命にかかわりますよ」
許宣は恐ろしくてじっとして聞いていられなかった。彼はそのまま外へ出たが足を止めるのが恐ろしいので、足の向くままに歩いた。彼はもう清波門の外へ往っていた。彼はそこへ往ってから気が注いて、これからどうしたものだろうかと考えた。しかし、それからどうしていいか、どういう手段を取っていいかという考えはちょっと浮ばなかった。と、金山寺の法海禅師の言った偈の句が浮んできた。それと同時に再び※[#「薛/子」、第3水準1−47−55]畜《ちくしょう》に纏われたなら、湖南の浄慈寺にわしを尋ねてこいと言った法海禅師の詞が浮んできた。彼はそれに力を得て浄慈寺の方へ往った。
浄慈寺には監寺の僧がいた。許宣は監寺に法海禅師のことを訊いた。
「法海禅師にお眼にかかりたいですが」
「法海禅師は、この寺へいらしたことはないのです」
許宣は力を落して帰った。そして長橋の下まで来た。許宣はそれからどうしていいか判らなかった。彼は湖水の水に眼を注けた。俺が一人死んでしまえば何人《だれ》にも迷惑をかけないですむと思いだした。彼の眼の前には暗い淋しい世界があった。彼はいきなり欄干に足をかけて飛びこもうとした。と、後ろから声をかける者があった。
「堂々たる男子が、何故生を軽んじる、事情があるなら商量《そうだん》にあずかろうじゃないか」
法海禅師が背に衣鉢を負い手に禅杖を提げて立っていた。許宣はその傍へ飛んで往った。
「どうか私の一命を救うてくださいまし」
「では、またあの※[#「薛/子」、第3水準1−47−55]畜が纏わってきたとみえるな、どこにおる」
「姐の夫の李幕事の家に来ております」
「よし、では、この鉢盂《はち》をあげるから、これを知らさずに持って往って、いきなりその女の頭へかぶせて、力一ぱいに押しつけるが宜い、どんなことがあっても、手をゆるめてはならない、わしは、今、後から往く」
許宣は禅師から鉢盂をもらって李幕事の家へ帰った。李幕事の家の一室では白娘子が何か言って罵っていた。許宣はしおしおとした容《さま》をしてその室へ往った。白娘子は許宣を見るとしとやかな女になって、許宣に何か言いかけようとした。隙を見て許宣は袖の中に隠していた鉢盂を出して、不意に女の頭に冠せて力まかせに押しつけた。女は叫んでそれを除けようとしたが、除けられなかった。女の形はだんだんに小さくなっていった。そして、許宣がなおも力を入れて押しつけていると、女の形はとうとうなくなって鉢盂ばかりとなった。
「苦しい、苦しい、どうか今まで夫婦となっていたよしみに、すこし除けてください、私は死にそうだ」
鉢盂の中からそうした声が聞えてきた。と、その時李幕事が来て言った。
「和尚さんが、怪しい者を捉りにきたと言って見えたよ」
「それは法海禅師です、早くお通ししてください」
李幕事は急いで出て往ったが、やがて法海禅師を伴れて入ってきた。
「妖蛇は、この下に伏せてあります」
禅師はそこで口の中で何か唱えていたが、それが終ると鉢盂を開けた。七八寸ぐらいある傀儡《にんぎょう》のようなものがぐったりとなっていた。禅師はその傀儡に向って言った。
「その方は、何故に人に纏わるのじゃ」
「私は風雨の時に、西湖に来た※[#「虫+(くさかんむり/天/廾)、149−14]蛇《うわばみ》です、青魚《せいぎょ》といっしょになっておりましたところで、許宣を見て心が動いたので、こんなことになりました。それでも、かつて物の命を傷《そこの》うたことがございませんから、どうか許してください」
「淫罪がもっとも大きいからいけない、それでも千年間修練するなら命は助かる、とにかく本の形を現わすが宜い」
それとともに傀儡は白い蛇となって、その傍に青い魚の姿も見えてきた。
禅師はその蛇と魚を鉢盂に入れて、それに褊衫《けさ》を被せて封をし、それを雷峯寺の前へ持って往って埋め、その上に一つの塔をこしらえさして、白蛇と青魚を世に出られないようにした。禅師はそれに四句の偈を留めた。
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雷峯塔倒れ、西湖水乾れ、江潮起たず、白蛇世に出ず
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許宣は法海禅師の弟子となって雷峯塔の下におり、その塔を七層の大塔にしたが、後、業を積んで坐化《ざけ》してしまった。朋輩の僧達は龕《がん》を買ってその骨を焼き、骨塔を雷峯の下に造ったのであった。
底本:「中国の怪談(一)」河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年5月6日初版発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
1970(昭和45)年11月30日発行
※「覚えているが宜い」は、底本では「覚えているが宣い」ですが、親本を参照して直しました。
入力:Hiroshi_O
校正:門田裕志、小林繁雄
2003年8月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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