舟の中に舳《へさき》を東の方へ向けて老人が艪を漕いでいる舟があって、それがすぐ眼の前を通りすぎようとした。許宣はどの舟でもいいから近い舟を呼ぼうと思って、その舟に声をかけようとしたところで、どうもその船頭に見覚えがあるようだから、竹子笠《たけのこがさ》を冠っている顔に注意した。それは張河公《ちょうかこう》という知合いの老人であった。許宣はうれしくてたまらなかった。
「張さん、張さん、おい張さん」
 許宣の声が聞えたとみえて、船頭は顔をあげて陸《おか》の方を見た。
「おれだ、おれだ、張さん、湧金門まで乗っけてくれないか」
 船頭は許宣を見つけた。
「ほう、主管《ばんとう》さん……」
 船頭は驚いたように言って艪をぐいと控《ひか》えて、舳を陸にして一押し押した。と、舟はすぐ楊柳の浅緑の葉の煙って見える水際《みぎわ》の沙《すな》にじゃりじゃりと音をさした。許宣は水際へ走りおりた。
「気の毒だが、湧金門までやっておくれ、保叔塔へ焼香に往ってて雨を喫《く》ったところだ」
「そいつは大変でしたね、早くお乗んなさい、わっしも湧金門へいくところじゃ」
「そうか、そいつはちょうどいい、乗っけてもらおう」
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