柳毅伝
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)柳毅《りゅうき》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+徑のつくり」、第3水準1−86−75]
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 唐の高宗の時に柳毅《りゅうき》という書生があった。文官試験を受けたが合格しなかったので、故郷の呉に帰るつもりで※[#「さんずい+徑のつくり」、第3水準1−86−75]川《けいせん》の畔《ほとり》まで帰ってきたが、その※[#「さんずい+徑のつくり」、第3水準1−86−75]川の北岸に同郷の者が住んでいた。毅はまず知人の許《もと》へ立ち寄り、やがて別れて六七里も行ったところで、路傍におりていた鳥の群がばたばたと立って飛んだので、馬がその羽音に驚いて左へそれて走った。そして六七里も矢のように行ったかと思うと、ぴったり止ってしまった。柳毅は馬の頭を向けなおして本道へ出ようとして、ふと見ると羊を伴《つ》れた若い女が路ぶちに立っていた。それは品のある綺麗な女であったが、何か悲しいことでもあるのか涙ぐましい顔をしていた。柳毅は磊落《らいらく》な、思ったことはなんでも口にするという豪快な質《たち》の男であった。
「貴女《あなた》のような美人が、どうしてそんなことをしているのです」
 女は淋しそうに笑った。
「私は、洞庭《どうてい》の竜王の女《むすめ》でございます。両親の命で、※[#「さんずい+徑のつくり」、第3水準1−86−75]川の次男に嫁《かた》づいておりましたが、夫が道楽者で、賤《いや》しい女に惑わされて、私を省《かえり》みてくれませんから、お父さんとお母さんに訴えますと、お父さんも、お母さんも、自分の小児《こども》の肩を持って、私を虐待して追いだしました、私はこのことを洞庭の方へ言ってやりたいと思いますが、路が遠いので困っております、貴郎《あなた》は呉にお帰りのようでございますが、どうか手紙を洞庭まで届けて戴けますまいか」
 女はすすり泣きをした。
「僕も男だ、君のそういうことを聞くと、どうにでもしてあげたいが、僕は人間だから、洞庭湖の中へは行けないだろう」
「洞庭の南に大きな橘の木がございます、土地の者はそれを社橘《しゃきつ》と言います、その木のある所へ行って、帯を解いて、それで三度木を打ってくださるなら、何人《だれ》か来ることになっております」
「それで好いなら、とどけてあげよう」
 女は着物の間に入れていた手紙を出して毅に渡した。毅はそれを腰の嚢《ふくろ》の中へ入れながら言った。
「貴女は何のために羊を牧《ぼく》しているのです」
「これは羊ではありません、雨工《うこう》です」
「雨工とはどんな物ですか」
「雷の類です」
 毅は驚いて羊のようなその獣に眼をやった。首の振り方から歩き方が羊と違った荒あらしさを持っていた。毅は笑った。
「では、これを洞庭へとどけてあげよう、そのかわり、帰ってきた時は、貴女は逃げないでしょうね」
「決して逃げはいたしません」
「では、別れましょう、さようなら」
 毅は馬を東の方へ向けたが、ちょと行って振り返って見ると、もう女の影も獣の影も見えなかった。
 毅はそれから一月あまりかかって故郷に帰ったが、自分の家へ行李を解くなり旅の疲労《つかれ》も癒さずに洞庭へ行って、女に教えられたように洞庭湖の縁《へり》を南へ行った。葉がくれに黄いろな実の見える大きな橘の木がすぐ見つかった。毅はこれだなと思ったので、帯を解いて橘の幹を三度叩いた。そして、終ってその眼を水の方へやったところで、一人の武士が水の中から出てきた。武士は毅の前へ来て拝《おじぎ》をした。
「貴客《あなた》は何方からいらっしゃいました」
 毅はこんな者に真箇《ほんとう》のことは言われないと思ったのででたらめを言った。
「大王に拝謁するために来たのです」
「では、お供をいたしましょう」
 武士は前《さき》に立って歩いて行ったが、水際《みぎわ》に出ると毅を見返った。
「すこしの間、眼をつむってくださいますように、そうするとすぐ行けますから」
 毅は武士の言うとおり眼を閉じた。毅の体は自然と動きだした。
「ここでございます」
 毅は眼を開けた。そこには宮殿の楼閣が参差《しんし》と列っていて、その間には珍しい木や草が花をつけていた。すこし行くと大きな殿堂がきた。それは白壁の柱で、砌《みぎり》に青玉を敷き、牀《こしかけ》には珊瑚を用いてあった。
「ここでお待ちくださいますように」
 武士は毅をその殿堂の隅へ連れて行った。毅はここはどうした所だろうと思って聞いた。
「ここはどこだね」
「霊虚殿《れいきょでん》でございます」
「大王はどこにいらるる」
「今、元
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