珠閣《げんしゅかく》で、太陽道士と火経を講じておりますから、すぐお出ましになります」
 紫の袍《ほう》を著た貴人が侍臣に取り巻かれて宮門の方から出てきた。
「王様だ」
 武士はあわてて走って行って迎えた。紫衣《しい》の貴人は静かに入ってきた。毅は洞庭君だと思ったのでうやうやしく拝《おじぎ》をした。
「先生がここへ見えられたのは、わしに何を教えてくださるためでございます」
「私は※[#「さんずい+徑のつくり」、第3水準1−86−75]川の畔で、大王のお嬢さんにお眼にかかって、手紙をあずかりましたから、それでまいりました」
 毅は女からあずかってきた手紙を出して洞庭君の前へ置いた。洞庭君はそれを取って開けて読みだしたが、みるみるその顔が曇っていった。
「これは私の罪だ」
 洞庭君は涙の眼を毅に向けた。
「お陰で早く判ってありがたい、きっと報います」
 侍臣の一人が傍へ寄ってきた。洞庭君は女の手紙を渡して宮中へ持って行かした。
「女《むすめ》が可哀そうだ」
 宮中の方から女達の泣く声が聞えてきた。洞庭君はあわてて傍の者に言った。
「あんな大きな声をしては、銭塘《せんとう》へ知れる、何人《だれ》か早く宮中へ行って、大きな声を出さないように言ってこい」
 一人の侍臣はまた宮中の方へ行った。毅は銭塘とは何人であろうかと思った。
「銭塘とおっしゃるのは、何人《どなた》のことでございます」
「銭塘とは、わしの弟じゃ、堯《ぎょう》の時の洪水は、あれが怒ったから起ったのじゃ」
 不意に百雷の落ちかかるような大音響が起って、殿堂が崩れるように揺ぎ渡った。と、赤い大きな竜が火を吐きながら空に登って行くのが見えた。毅はびっくりして倒れてしまった。
「怖れることはない、先生に害はない」
 洞庭君は起《た》ってきて倒れている毅を助け起した。毅はやや安心したものの気味が悪くてたまらないので帰ろうと思った。
「今日はこれでお暇《いとま》いたします」
「そう急がないが好い、一つわしの志をさしあげよう」
 洞庭君は饗宴の席を設けさして毅と盃をあげた。洞庭君は酒を飲みながら毅が信義を重んじてわざわざ女の手紙をとどけてくれた礼を言って喜んだ。
 軟らかな風がどこからともなしに吹いてきて、笑声が聞え、その笑声に交って笛や簫《しょう》の音《ね》が聞えてきた。毅は不審に思って外の方を見た。たくさんの女の姿が空中に見えていたが、その中に※[#「さんずい+徑のつくり」、第3水準1−86−75]川の畔で見たかの女の姿があった。
「※[#「さんずい+徑のつくり」、第3水準1−86−75]川の囚人が帰ってきた」
 洞庭君は嬉しそうに言った。女達の姿は紫の霞に隠れたり見えたりしながら宮中の方へ流れるように行った。
 洞庭君はちょと席をはずして宮中の方へ引込んで行ったが、すぐ出てきて毅の相手になった。紫の袍を来て青玉を持ったいかつい顔の貴人が、いつの間にか洞庭君の傍へ来て立った。洞庭君は毅に言った。
「これがわしの弟の銭塘じゃ」
 毅は起って行って拝《おじぎ》をした。銭塘君も毅に礼を返した。
「先生がなかったなら、女姪《めい》は※[#「さんずい+徑のつくり」、第3水準1−86−75]陵《けいりょう》の土となるところであった」
 銭塘君は傲然として言ってから、今度は洞庭君の方を見た。
「さっきここを出てから、巳《み》の時に※[#「さんずい+徑のつくり」、第3水準1−86−75]陵へ行って、午《うま》の時に戦って、帰りに九天へ行って、上帝にその訳を訴えてきました」
「どれくらい殺した」
「六十万」
「稼《か》を傷《そこな》うたか」
「八百里傷いました」
「馬鹿者をどうした」
「喰ってしまいました」
「馬鹿者は憎むべきだが、お前もあまりひどいことをやったものだ」
 毅はその晩凝光殿へ泊った。翌日になると洞庭君は凝碧宮に饗宴を設けて御馳走をした。その庭には広楽を張ってあって、銭塘の破陣楽《はじんがく》をはじめ様ざまの音楽を奏した。
 翌日洞庭君は新たに清光閣に盛宴を張った。銭塘君は酒に酔って毅に言った。
「わしは先生に言いたいことがある、ぜひ女姪《めい》を家内にして貰いたい」
 毅は銭塘君の威圧的な言葉が厭であった。
「私は王の剛快明直なやり方は、非常に感心しておりますが、そういうような結婚は、厭でございます、これは大王の御判断を仰ぎたいと思います」
 銭塘君は自分の言ったことに気が注《つ》いた。
「これはわしが悪かった、どうかこらえてくれ」
 毅と銭塘君はそのときから知心の友となった。翌日になって毅が帰ることになると、洞庭夫人が潜景殿《せんけいでん》で送別の宴を張った。そこへは宮中の者が男も女も皆出ることを許された。
 夫人の傍にはいつの間にか※[#「さんずい+徑のつくり」、第3水準1−86−
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング