餅を喫う
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)壮《わか》い
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町の酒屋では壮《わか》い主人が亡くなったので、その日葬式を済まして、親類や手伝いに来て貰った隣の人びとに所謂《いわゆる》涙酒を出し、それもやっと終って皆で寝たところで、裏門の戸をとんとんと叩く者があった。
その家には雇人も二三人おり、親類の者も泊り合せていたが、この二三日の疲れでぐっすり睡ってしまって知らなかった。ただ女房の藤代のみは、所天《ていしゅ》に別れた悲しみのために、一人の男の子といっしょに寝床へ入ることは入っても睡れなかったので、すぐそれを聞きつけた。しかし、それも、はじめは風か鼠のように思って耳に入れなかったが、その調子のある叩き方がどうしても風や鼠のように思われなくなったので耳をたてた。
それはたしかに力の無い手で裏門の戸を叩く音であった。こうした取込の場合に、また夜更けに、何人《だれ》がどんな用で来たのであろう。もしかすると親類か雇人の家かに急病人でも出来て、何人《だれ》かを呼びに来た者であろうか、とにかく起きてやらねばならないと思ったが、夜更けに遅く裏庭へ往くことが恐ろしくてしかたがない、で泊ってくれている伯父さんに往って貰おうと思った。
「……伯父さん、……伯父さん」
隣の室で、微かに聞えていた鼾がぱったりとやんだが返事はない。
「……伯父さん、……伯父さん」
「わしを呼んだのか」
「すみませんが、何人《だれ》か人が来て、裏門を叩いているようでございます。起きてくださいませんか」
「そうか、往って来よう、何だろう」
戸を叩く音がまたとんとんと聞えて来た。伯父さんはそれをはっきりと聞いた。
「なるほど、叩くな、何人だろう」
伯父さんはやっとこさ起きあがって、暗い中をさぐりさぐり庖厨《かって》の方へ往って土間へおり、足でさなずって下駄と草履をかたかたに履いて、其処の戸を放して裏口へ出た。暗い空には寒そうに星が光って四辺《あたり》がしんとしていた。
「何人だね、なんか用かね」
すぐ眼の前にある裏門の戸がまたとんとん鳴った。伯父さんはその方へ歩いて往った。しかし、時どき強盗などの噂があって油断の出来ない時であるから、よく声をたしかめなければ開けられないと思っていた。
「何人だね」
微な風に顫えてるような声が聞えて来た。
「私でございます」
伯父にはあたりがつかなかった。
「私とは、何人だ」
「私の声が判りませんか」
伯父さんはやっぱり判らなかった。
「判らないね、何人《だれ》だ」
「私は芳三でございます」
伯父さんは体がぞくぞくした。芳三とは新仏の名であった。
「…………」
「あなたは何人でございますか」
「わしは、伯父の林蔵じゃ」
伯父さんの声は顫えた。
「伯父さんでございますか、伯父さんなら頼みたいことがあります」
「なんじゃ、どんな頼みじゃ、云うが好い、お前の云うとおりにしてやる」
「伯父さん、私は、己《じぶん》の物が皆欲しゅうて、それで出て来ました、衣服《きもの》も、道具も、私の使っていた物は、皆墓へ持って来て埋めてもらいとうございます、そうして貰わないと私は心が残って、浮ばれません」
伯父さんはなるほど仏の云うことが尤もだと思った。
「よし、明日、夜が明け次第、皆持って往って埋めてやる、安心するが好い、それから家のことも心配せんが好い、皆で世話して好いようにしてやる」
「それではお願いします、そうして貰えないと、私は浮ばれません」
「好いとも、夜が明け次第、持って往って埋めてやる」
「それではお願いします」
「好いとも、他にもう云いたいことはないか」
外からはもうなんの声も聞えなかった。伯父さんは仏が帰ったと思ったので、家の中へ逃げるように入って往った。
伯父さんは藤代をはじめ其処へいっしょに泊り合せている親類の者を起して、仏の云ったことを話し、翌朝芳三の衣服《きもの》から煙草入れに至るまで一切持って往って墓の側に埋めた。
その伯父さんは店の整理があるので、やはり甥の家にいたが間もなく初七日が来た。酒屋では初七日の法事をしてその後で親類や隣の者に精進料理の饗応《ごちそう》をしたので、朝から非常に忙しかったが、夕方になるとその客もやっと帰ったので、家内は十時比になって寝てしまった。
伯父さんもすこし飲んだ酒の疲れのために、一睡りして便所に起きたところで、また裏門の戸を叩く音が聞えて来た。伯父さんは立ちすくんだようになってその音を聞いていた。
戸の音はまた聞えて来た。伯父さんはまた芳三が何か云いたいことがあって来たのであろうと思った。伯父さんは恐ろしくって体がまたぞくぞくしだしたが、それでも逃げるわけに往かないので困ってしまった。と、その日来て泊り合せていた藤代の父
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