て、やっと正気になって家へ帰ってみると、落したのか財布が無くなっていた。
 白い衣服《きもの》を着て長い大きな舌を出している幽霊の噂はますます評判になった。日々餅を売りに往っている男があって、ある晩遅くなって隣村から帰っていた。月の明るい晩であったが、餅屋はその比評判の幽霊の噂を思いだして、恐る恐る歩いていた。
 小さな雑木の生えた丘に来た。その丘の上には畠があって大根のような物が見えていた。餅屋はその丘をあがりつめて畠の隅にある肥料小屋《のぜっちん》の傍まで往ったところで、不意に眼の前へ白い衣服を着た物が跳んで来て、襟元にその手をかけた。見ると長い舌がだらりと垂れていた。餅屋は風呂敷に入れて首にくくりつけていた餅箱といっしょにつくばって気が遠くなった。
 暫くしてやっと気がつきかけた餅屋が顫えながら見ると、白い衣《きもの》を着た幽霊がその傍に蹲んで己《じぶん》の餅箱らしい箱を前に置いて何かむしゃむしゃと喫っていた。餅屋は動いて声を立てたならどんな目に逢わされるかも判らないと思ったので、呼吸《いき》もしないようにしてそっと見ていた。幽霊はその時手を餅箱の中に入れて、中から一つの餅を引っぱり出してそれを口に入れたが、小さな舌がべろべろと動いただけであった。
 餅屋の頭にふとひらめいたものがあった。それは幽霊が人間のように餅などを喫うはずがないと云うことであった。餅屋の頭には余裕が出来て来た。餅屋はじっとその容子を見た。小柄な顔の眼のちかちか光る男であった。
「たしかに人間だ、人をおどして物を取る盗人《ぬすっと》だ」
 餅屋はいきなりその男に跳びかかった。彼はびっくりして餅屋をふり放して逃げだした。
「盗人、盗人、盗人を捕えてくれ」
 餅屋は何処までもその男を追いかけて往った。
 白い衣《きもの》を着た幽霊は町の博徒の一人であった。その悪漢は餅屋に捕えられて町の牢屋に入れられた。悪漢の口にしていた舌はコンニャクであった。酒屋ではこのことを聞いてもしやと思って墓の傍を掘って見た。埋めた衣類も金も何もなくなっていたので、はじめてその悪漢に謀られたと云うことが判った。
 これは維新の際に千葉県の某処にあった実話を本《もと》として書いたものである。



底本:「日本の怪談(二)」河出文庫、河出書房新社
   1986(昭和61)年12月4日初版発行
底本の親本:「日本怪談全集」桃源社
   1970(昭和45)年初版発行
※「ぐっすり睡って」「起きあがって伯父さんの」「呼吸《いき》もしないようにしてそっと」は、それぞれ底本では「ぐすっり睡って」「起きあがって伯父さんさんの」「呼吸《いき》もしないようにしてそって」となっていますが、親本を参照して直しました。
入力:Hiroshi_O
校正:門田裕志、小林繁雄
2003年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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