富貴発跡司志
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)至正丙戌《しせいへいじゅつ》の年

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|已《すで》に

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+全」、221−13]伏《せんぷく》
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 至正丙戌《しせいへいじゅつ》の年のことである。泰州に何友仁《かゆうじん》という男があって、学問もあり才気もあり、それに家柄もよかったが、運が悪くて世に出ることができないので、家はいつも貧乏で困っていたが、その年になってまた一層の窮乏に陥り、ほとんど餓死しなくてはならないという境遇に立ち至った。で、友仁は城隍司《じょうこうし》に祷《いの》って福を得ようと思って、ある夜その祠《ほこら》へ往った。
 その祠にはそれぞれ司曹《しそう》があって、祈願の種類に依ってそれを祷ることになっていた。祠の左右の廡下《のきした》に並んだ諸司にはそれぞれ燈火が点《つ》いて、参詣の人びとはその前へ跪いて思い思いに祈願をこめていた。
 友仁はどこへ往って自分のことを祈願しようかと思って彼方此方と物色《ぶっしょく》して歩いた。と、ひとところ燈火の点いてない暗い所があった。友仁はここは何を祷る所であろうかと思って、暗い中を透してみた。神像の前の案《つくえ》に富貴発跡司《ふうきはっせきし》と書いた榜《ふだ》があった。友仁はこれこそ自分の尋ねているところだと思って、その前へ跪いた。
「私は四十五になりますが、寒い時には裘《かわごろも》を一枚着、暑い時には葛衣《かたびら》を一枚着、そして、朝と晩には、粥をいっぱいずつ食べて、初めからすこしも物を無駄にはいたしませんが、それでも平生《いつも》困っております、だから冬暖かい年があっても、寒さにふるえ、年が豊かでも飢に苦しんでおります、だから一人の知己もありません、家には無論蓄積がありませんから、妻や児《こども》までが軽蔑します、郷党は郷党で、交際をしてくれません、私は他に訴える所がありません、大神は富貴の案を主《つかさど》っておられますから、お呵《しかり》を顧みずにお願いいたします、どうか私の将来のことをお知らせくださいますとともに、いつがきたならこの困阨《こんやく》を逃れて、苦しまないようになりましょうか、それをお知らせくださいまして、枯魚《こぎょ》が斗水《とすい》を得るように、また窮鳥が休むに好い枝に托《つ》くようになされてくださいませ、それが万一、私の運が定っていて、後からどうすることもできなくて、一生を薄命不遇に終らねばならぬようになっておってもかまいません、どうかお知らせくださいますように」
 友仁はそのままそこへ※[#「足へん+全」、221−13]伏《せんぷく》していた。祈願の人が韈《くつ》の音をさしてその側を往来していた。友仁の耳へはその音が遠くの音のように聞えていた。
 いつの間にか夜半《よなか》に近くなっていた。祠の中はもうひっそりとしていた。と、呵殿《かでん》の声がどこからともなしに聞えてきた。友仁はこの深夜にどうした官人が通行しているだろうと思っていた。
 呵殿の声はしだいに近くなってきた。友仁は官人の何人かが秘かに参詣に来たものであろうと思って、廟門の方へ眼をやった。
 呵殿の声はもう廟門を入ってきた。官人の左右に燭《とも》しているのであろう紗の燈籠が二列になって見えてきた。と、各司曹にあった木像の判官が急に動きだして、それが皆外へ走って往って入ってきた官人を迎えた。前呵後殿、行列の儀衛は一糸も乱れずに入ってきた。紗燈《しゃとう》の光は朝服をした端厳な姿の官人を映しだした。
 友仁はすぐこれは城隍祠の府君であると思った。官人はやがて正殿に登って坐った。するとかの判官たちが、順々にその前へ出て拝謁したが、終ると皆自分自分の司曹へ帰って往った。友仁の前へも一人の判官が帰ってきた。それはそこの発跡司の主神で、それは府君に扈従《こじゅう》して天に往っていて帰ったところであった。
 今まで暗かった司曹が明るくなっていた。※[#「巾+僕のつくり」、第3水準1−84−12]頭角帯《ぼくとうかくたい》、緋緑《ひりょく》の衣を着た判官が数人入ってきて何か言いはじめた。友仁は何を言うだろうと思って案《つくえ》の下へ身を屈めて聞いていた。
「―県の―は、米を二千石持っておったが、この頃の旱魃《かんばつ》と虫害で、米価があがり、隣境から糴《いりよね》がこなくなって、餓死人が出来たので、倉を開いて賑わしたが、元価を取りて利益を取らず、また粥を焚いて貧民を済《すく》ったので、それがために命をつないでいる者が多いといって、さっき県神《け
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