として毎月五錠の銭を貰うようになったので、いくらか生活が康《やす》らかになってきた。
 そこで友仁は日英の家に数年いたが、そのうちに張氏が高郵《こうゆう》に兵を起したので、元朝では丞相脱脱に命じて討伐さした。大師|達理月沙《たつりげっしゃ》という者があって、書物を読んでいて士を好んだ。友仁はその馬前へ往って策《はかりごと》を献じたところが、それが月沙の意に称《かの》うて、脱公の幕僚に推薦してくれた。
 友仁は一朝にして車馬儀従の身分となった。脱公が都へ徴《め》し環さるるに及んで、友仁もいっしょに往って朝廷に仕え、館閣を践歴し、遂に省部に※[#「(「皐」の「白」に代えて「自」)+栩のつくり」、第3水準1−90−35]翔《こうしょう》するようになった。
 やがて文林郎内台御使《ぶんりんろうないだいぎょし》を授けられたが、その同僚に雲石不花《うんせきふか》という者があって、これと仲が悪かったので、そのために讒言《ざんげん》をせられて、雷州の録事《ろくじ》に黜《しりぞ》けられた。
 友仁は判官の詞を時どき思いだした。そして日月雲の三字は皆已に験《しるし》があったので、雷州へ往ってからは深く自ら戒懼《かいく》して、決して悪いことをしなかったが、二年目になって総官府に上申する事件ができて、部下の官吏が書面を持ってきたので、それに自署して、雷州路録事何某と書こうと思って、筆を持って雷という字を書きかけたところで、風が吹いて紙をあおり、雷の字の下へ尻尾が出来て、それが電という字になった。友仁ははっと思って、その書面を新しく書きかえさしたが、夜になって病気になった。友仁はもう起《た》つことができないと思ったので、家事を整理し、妻子に訣別したが、間もなく死んでしまった。



底本:「中国の怪談(一)」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年5月6日初版発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
   1970(昭和45)年発行
入力:Hiroshi_O
校正:noriko saito
2004年11月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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