、屁のようなことにも倫理道徳をくっつける馬琴の筆にしては、同じ堅くるしい中にも軽い味がある。
 文政四年の夏であった。番町に住む旗下《はたもと》の用人は、主家の費用をこしらえに、下総にある知行所に往っていた。五百石ばかりの禄米があって旗下としてはかなりな家柄である主家が、その数代不運続きでそれがために何時も知行所から無理な金をとり立ててあるので、とても今度は思うように調達ができまいと思った。その一方で用人は、村役人のしかめ面を眼前《めさき》に浮べていた。
 微曇のした蒸し暑い日で、青あおと続いた稲田の稲の葉がぴりりとも動かなかった。草加《そうか》の宿が近くなったところで用人は己《じぶん》の傍を歩いている旅憎に気がついた。それは用人が歩き歩き火打石を打って火を出し、それで煙草を点けて一吸い吸いながらちょと己《じぶん》の右側を見た時であった。
 旅憎は溷鼠染《どぶねずみぞめ》と云っている栲《たえ》の古いどろどろしたような単衣《ひとえもの》を着て、頭《かしら》に白菅の笠を被り、首に頭陀袋をかけていた。年の比《ころ》は四十過ぎであろう、痩せて頤《おとがい》の尖った顔は蒼黒く、眼は落ち窪んで青く
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