秀がそれとなしに云った。
「戻りとうても戻れんじゃろう、遊びに往ちょるじゃないから」
「そうじゃ、のうし」
秀も後へ続ける詞がなかった。二人は手持ぶさたになったので帰って往った。為作は舌打ちした。
「野良犬どもの対手に、飼っている嫁じゃないぞ、何をうろうろしに来る」
源吉は腹這いになっていた。
「もうお母も戻って来る、もうすこし起きておるがええ」
為作は飯にしていた。と、女の叫び声が聞えて来た。為作は箸をぴたり止めた。
「はてな」と、云って耳を傾けた為作の耳へまた女の叫び声が聞えて来た。「ありゃあ、嫁の声じゃ、畜生、源吉は家におれ、外へ出ちゃいかんぞ」
為作はそう云い云い起ちあがるなり土間へおりて、壁へ立てかけてあった枴《おうこ》を持って戸外《そと》へ出た。源吉はびっくりして起きあがり室《へや》の中をうろうろ歩いた。
三
お勝は月の下で背の高い一本の短い刀を差した暴漢に帯の端を掴まれていた。お勝は牧野の家を出て帰りかけたところで、月が明るいので近路をして草原の中を通って来ると、其処の松の陰にその暴漢が待っていた。
小格子ではあるがお職も張って、男あつかいに慣れている彼女は、燃えあがっている対手の心を撫でつけるようにして、隙を見て逃げようとしたところで、対手は野獣の本性をあらわして、帯の端を掴んで引もどそうとしたのであった。
お勝は絶体絶命であった。引戻されて対手の一方の手が肩にかかれば体の自由を奪われなくてはならなかった。お勝は引戻されまいとして夢中になって争った。その機《はずみ》に帯の結び目が解けた。黒繻子の帯の一方は暴漢の手に掴まれたなりに、痩せぎすなすっきりしたお勝の体はくるくると月の下に廻った。お勝の体はみるみる暴漢と二三尺離れたが機《はずみ》を喫《く》って膝を突いた。お勝は襲いかかってくる暴漢を払いのけるように、隻手をその方にやって一方の手で起きようとした。面長な色の白いお勝の顔が艶かしかった。暴漢は帯を捨てて迫って来た。
「なにをさらす、この無法者」
物凄い怒り立つ声がして暴漢の前に枴が閃いた。暴漢は立ち縮《すく》んだ。
「きさまは、地下《じげ》浪人じゃな、俺の家の嫁をどうしようと云うのじゃ」
背の高い短い刀を差した暴漢は、手習師匠をやっている林田与右衛門と云う浪人であった。林田はぎょろりとした眼で対手を見た。何時も見なれている翁の面の為作の顔があった。
「その女子には、俺が話したいことがある、邪魔をすると只ではおかんぞ」
「それは此方から云うことじゃ、この女子は俺の家の嫁じゃ、俺の家の嫁をどうしようと云うのじゃ、この無法者」
為作の手にした枴はまた閃いた。林田はちょと身をかわすなり、その手元につけ入って枴を奪いとってふりかぶった。その林田の眼の前にその時、不意に恐ろしいものが閃いた。それは薙刀を二つ組みあわせたような紫色を帯びた大蟹の鋏であった。林田は驚いて枴を投げ捨てて後へ退った。大蟹の鋏は其処にもあった。
「わッ」
林田は眼を押えて逃げて往った。為作とお勝は暴漢が逃げてくれたので安心して帰って来た。
「彼の無法者の逃げた容《さま》がおかしいじゃないか」
「眼を押えて逃げたのですが、どうかしたのでしょうか」
「枴の端《さき》でもあたったろうよ」
「そうでしょうか」
「そうとも、罰じゃよ」
四
翌朝になって為作は、女一人の夜歩きは物騒だから時刻を見はからって迎えに往くと云うことにしてお勝を出し、その後で源吉の守をしながら他家《よそ》から頼まれてある雨戸をこしらえていた。
為作は庭前《にわさき》の日陰に莚を敷いて其処で仕事をしていた。源吉は為作の傍にいたりいなかったりした。
夕方になって為作が仕事をおいて、夕飯の準備《したく》をしていると源吉がひょいと庭前へ来て立った。
「お祖父さん」
為作は囲炉裏の傍にいた。
「おう、源吉か、何処へ往っておった、お祖父さんは探しに往こうと思いよったぞ」
「お諏訪様へ往ってたよ、お祖父さん、今日はお諏訪様が出て来たよ」
「なに、お諏訪様が」
「そうよ、おいらが、お諏訪様の前へ往って、お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょうっていったら、出て来たのだよ」
為作は何のたあいないことを云ってるだろうとは思ったが、源吉が如何にも真面目であるから、鍋の中を掻き混ぜていた手を止めた。
「出て来たって、何が出て来たのか」
「お諏訪様だよ」
「お諏訪様って、どんなお諏訪様じゃ」
「白い蛇よ」
「白い蛇が何処から出て来たよ」
「おいらが、お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょうと云ってたら、神様の下の石の間から出て来たのだよ」
「それからどうした」
「おいらは、はじめはおっかなかったから、逃げちゃったが、追っかけて来ないの、横
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