とがありまして、それでは、またまいります」
「そうでございますか、それでは、また主人のおる時に、お出でなさいませ」
 女房は睨むように女の顔を見た。女は小声で何か云いながら頭をさげて門の方へ歩いて往ったが、左側の木立の傍へ寄ったかと思うともう見えなくなった。女房は不審して見ていたが、女の姿が見えなくなったのに安心してそっと引返した。
 益之助は先刻の枕のままで眠っていた。女房は己《じぶん》に秘密を知られたので狸寝入りをしていはしないかと思って、冷笑を浮べてその顔を見ていたが、益之助は何事も知らない容《ふう》で何時までも穏かな鼻息をしていた。

 朝になって女房は夫がどんな顔をするであろうかと思って、時どき意味ありそうにその顔を見詰めたが、夫はしらを切っているのか、別に何とも思わないような顔をしていた。
「あなたは、昨夜《ゆうべ》、よくお寝みになれましたか」
 こんなことを云っても夫は平常《ふだん》と同じような態度で、落ちつきのある返事をしながら旨そうに飯を喫《く》った。
「昨夜は、物干竿の音もしませんでしたね」
「昨夜は、やらなかったようだな」
 益之助は平常《ふだん》のようにして出て往った。女房は未だ疑念が晴れなかった。
 その夜はもう二人の口に物干竿のことは登らなかった。やがて寝床に入ったところで益之助は直ぐ眠ってしまったが、女房の方はまた今晩も前夜の女《むすめ》が来やしないかと云う嫉妬に駆られているので眼が冴えるばかりであった。その晩はすこし風があって庭木の枝葉のざあざあと靡いているのが聞えた。
「もし、もし、もし」
 昨夜《ゆうべ》と同じような女の声が玄関の方でしはじめた。女房は又来たのかと憤りながら、そっと昨夜の処から出て往った。そして、竹垣に沿うて覗いて見た。果して前夜の女の姿が暗い中に見えている。女房は耳門戸を開けて傍へ寄って往った。
「よくまあ遅くお出でになりました」
 女は黙って頭をさげた。
「お気の毒でございますが、今晩も主人は留守でございます」
 女はまた何か小声で云ったが、熱した女房の胸には聞えなかった。
「主人は、この比《ごろ》、毎晩留守でございますから、お出でになりましても、当分お目にかかれますまい」
 女は二三度頭をさげて何か云ってからすうと門の方へ往ったが、前夜の木立の処でまた見えなくなった。風に吹かれている木の葉が二三枚ぎらぎらと青
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