変災序記
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)魔鳥の翅《はね》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)姫|日向葵《ひまわり》の葉
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)やっと[#「やっと」は底本では「やつと」]
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大正十二年九月一日の朝は、数日来の驟雨模様の空が暴風雨の空に変って、魔鳥の翅《はね》のような奇怪な容《かたち》をした雲が飛んでいたが、すぐ雨になって私の住んでいる茗荷谷《みょうがだに》の谷間を掻き消そうとでもするように降って来た。私は平生のように起きて、子供たちと一緒に朝飯を喫《く》い、それから二階へあがって机に向ったが、前夜の宿酔のために仕事をする気になれないので、籐《とう》の寝椅子によっかかりながら、ガラス越しに裏崖の草藪の方を見た。漆の木、淡竹、虎杖《いたどり》、姫|日向葵《ひまわり》の葉、そうした木草の枝葉が強い風に掻きまわされ、白い縄のような雨水に洗われて物凄かった。
その日はいわゆる二百十日の前日であった。室の中には南風気《みなみげ》の生温い熱気が籠って気味が悪かった。私はもう戸外を見るのも厭になったので、そのまま眼を閉じて前夜の酒の席のことなどを考えていた。馬場孤蝶翁が銀婚式をやる年に当り、初孫も生れ、それで全集も出ることになったので、門下知友がその祝いをやるとともに、記念文集の出版の挙となり、私もその委員の一人に選まれたので、その日五六人の委員と孤蝶翁の家に集まって、文壇の各方面に原稿の寄稿依頼の手簡を出したが、終って夕飯を喫うことになり、江戸川端の「橋本」という鰻屋に往ったところで、若い鼻眼鏡の委員の一人が興に乗って、ビールのカップや猪口に歯を当てて噛み砕いて酒をあおった。私はその友人の紅い唇などを思い浮べて独りで笑い心地になっていたが、急に四辺がひっそりとなったので、不思議に思って眼を開けた。うす暗かった家の内が明るくなって、草藪の上に陽の光が射していた。私は起きあがって表に向いた方の雨戸を開けた。
磨きをかけたような藍色の空にうす鼠色の雲が動いていて、暑い陽の光が風に吹きちぎられたようにぎらぎらと漂っていた。私の家の玄関口からは二三十間も前になった街路に面した総門越しに眼をやると、街路の向う側の藤寺の墓地の樹木が微風に揉まれていた。その樹木の中には欅があり、向う隣の二階家の屋根の上に見える一本の白楊は、葛の葉のような白い裏葉を見せていた。その二階家の向うは総門の左側の角になって、木造の青ペンキ塗りの古いシナ人の下宿があった。墓地の樹木は崖の上の樹木に続いて、その間に一軒の高い窓の家は下宿屋であった。下宿屋の上の家並は大塚の電車通りに沿うた人家で、総門の右側には雑貨店をやっている小学校の校長の住んでいる二階家があって、その向うには墓地の続きになった所に建った大きな建物の簷《のき》が僅かに見えていた。それは奈良県の寄宿舎であった。寄宿舎の右寄りの上にも二軒の二階家が涼しそうな顔を見せていた。
それはもう十一時を過ぎていた。私は胃の勢いであろう物が喫いたくなったので、早い昼飯をこしらえさしてそれを喫い、裏崖に向った窓の下に据えた机の前に往って、泉筆を持って書きさしの原稿紙に三四字書いたところで、家内があがって来て来客を知らした。
「ワチっていう方が見えました」
私はすぐ大町桂月翁の許に寄宿していたことのある和智君ではないかと思った。で、家内に言いつけてあげてみると、果してその和智君であった。和智君は痩せて背のひょろ長い体に洗い晒《ざら》した浴衣を着ていた。私は和智君とは一度しか逢ったことはなかった。それはもう六七年前のことであったが、眼玉の出た神経的な特異な眼に記憶があった。和智君はエヤーシップの袋を出して火を点《つ》けた。
「大町先生の門口まで往ったが、ひっ返して来ました」
和智君は東京から帰って朝鮮あたりで新聞記者をしていたと言った。
「アメリカへ往くつもりで、渡行免状をもらったところで、親爺が病気になったものですから、よしたのです」
と、和智君が言いかけたところで、どう、どう、という風の音とも遠雷とも判らない物の音がして、その音が地の底に響いたように感じた刹那、家がぐらぐらと揺れだした。ちょうど大波の上に乗った小舟のように揺れて、畳がむくむくと持ちあがりそうになった。がらがらばらばらと物の崩れるような音や倒れるような音が、周章《あわ》てた私の耳に入った。
「地震だ」
私と和智君ははね飛ばされたように起ちあがった。私は畳の上を二足ばかりひょろひょろと歩いた。
「おい、地震だ、地震だ」
下から女の児の泣き声と家内の叫ぶ声とが同時に聞えて来た。私はふと家内と子供を二階へ伴れて来ようと思った。それは安政
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