怪しい老女の姿はもう庭に見えなかった。男の子はそのまま病気になってしまった。不思議な病気であるから久武の邸では、寺から僧を招んで来て祈祷をしてもらった。僧は小供の枕頭に坐って小声でお経を唱えていた。
 小供は急に起きあがって座敷の中を走りだした。
「悪人を生け置いてたまるか、悪人は生け置かんぞ」
 そして、また引っくり返って手足をびくびくと動かしだした。僧は一生懸命になってお経を唱えた。僧の顔には汗が出ていた。
「悪人を生け置いてたまるか、悪人は生け置かんぞ」
 小供はまたこう叫びながら、体を悶掻《もが》いて畳の上を転げ廻った。
「悪人を生け置いてたまるか、悪人は生け置かんぞ」
 その夜の明け方になって、小供は座敷のうちを狂い廻っているうちに、ばったり倒れたがそのまま死んでしまった。
 残忍な内蔵助もこれには恐れてしまった。彼は物の怪を払わすために、他の寺からも数人の僧侶を招んで来て祈祷をさした。男の子が死んでから七日目の晩になった。僧侶は仏壇の前で祈祷をしていた。内蔵助とその妻は次の部屋で亡くなった男の子の話をしていた。妻の眼には涙があった。その隣には総領の小供のいる部屋があった。総領は十二三になっていた。
「南無阿弥陀仏」
 と、云う声が総領の部屋で聞えた。夫婦は驚いてその部屋へ飛び込んで往った。総領の少年が部屋の真中へ坐って、腹へ短刀を突き立てて苦しんでいた。内蔵助は後から少年の短刀を持った手をぐっと掴んだ。
「なぜ、こんなことをしてくれた」
 内蔵助は声を慄わして云った。妻も総領の前へ泣き倒れてしまった。
「元親公の御諚で検使が二人来て、詰腹切らされました」
 少年は苦しそうに云って呼吸《いき》をついた。そして、落ち入ってしまった。
 内蔵助の妻は、二人の小供を殺した悲しみのために、発狂したのかそれもその夜のうちに自殺してしまった。内蔵助には八人の小供があったが、皆その後で変死してしまって、一番末の男の子が一人残っていたが、それは長宗我部家の滅亡の時に、内蔵助と二人で日向の方へ逃げて往ったのであった。

 久武内蔵助の従弟に当る五月新三郎は、ある晩、小高坂へ往って親実の邸宅の傍を通っていた。薄月のさした暖かな晩であった。ふと見ると、十六七に見える色の白い女が一人立っていた。人通りのない淋しい路ぶちに、歳のゆかない女の子が立っているのは不思議であるから、
(もしや、妖怪ではないか)
 新三郎は注意したが、別に怪しいそぶりもなかった。ただしょんぼりと立っている容《さま》が、如何にも何か思案に余ることがあって、非常に困っているようであるから傍へ往って声をかけた。
「この夜更けに、壮《わか》い女子《おなご》の方が、一人で何をなされておられる」
 見ると立派な服装《なり》をしていた。女は恐ろしそうに新三郎の顔を見たままで何も云わなかった。
「私は五月新三郎と申す[#「申す」は底本では「中す」と誤植]者で、決して怪しい者ではない」
「私は秦泉寺《じんせんじ》の者でございますが、去年国沢へ縁附きましたところが、夫には他に女子《おなご》が出来て捨てられましたから、淵川へなりと身を投げて死のうと思いましたが、秦泉寺には一人の母がございまして、私に万一《もしも》のことでもありますと、母がどんなに嘆くであろうと思いますと、死にもならず、兎に角秦泉寺へ参りまして、母に一目逢うたうえでと思いまして、夕方に国沢を抜け出しましたが、追手が恐ろしゅうございますから、廻り道をして往こうと思いまして、此処へまで来たものの、恐ろしくて、困っておるところでございます」
 こう云って女は涙を見せた。新三郎はそれがいじらしかった。
「それでは私が秦泉寺へ送って進ぜよう」
「それは有難うございますが、遠い処を、そんなことをしていただきましては済みません」
「何、今晩は別に用事もないから、送って進ぜよう」
「では、お詞《ことば》に甘えますが」
 女はこう云ってまた何か困ったような顔をしながら脚下に眼を落した。
「それに、馴れぬ夜路をいたしまして、足を傷めて困っております」
 新三郎は負うて往ってやろうと思った。
「そんなことなら、負うて進ぜよう」
 女は恥かしそうにして笑った。その笑い方が如何にも濃艶であった。新三郎は直ぐ其処へ踞んだ。
「さあ、遠慮なさらずに」
 香《におい》のあるような身体がふわりと背に寄りかかった。新三郎は起って軽々と歩いた。
 半丁ばかりも往くと、新三郎の背には大盤石が乗ったようになって動けなくなった。新三郎は驚いて後を見た。背の上には恐ろしい鬼の顔があった。長い二本の角に月の光がかかっていた。
「おのれ、妖怪」
 新三郎は突然怪しいものを投げ落そうとした。と、新三郎の首筋に大きな手がかかって、その体は宙に浮きあがった。豪胆な薪三郎は腰の
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