があった。
「土居殿、わしは草疲《くた》れたから休息する、ずいぶん働きなされ」
市右衛門はこう云って刀を引いて後へ退った。次郎兵衛と勝行の二人は人|交《まぜ》もせずに斬り結んだ。双方とも手傷が多くなって来た。市右衛門は次郎兵衛の後へそっと往ってその両足へ斬りつけた。次郎兵衛は仰向けに倒れた。倒れながら、
「おのれに出し抜かれたか」
と、云って脇差を手裏剣にして、市右衛門を目掛けて投げつけた。脇差は市右衛門の小腹を貫いた。勝行は次郎兵衛の首を執ることができた。
次郎兵衛の墓は、蓮池城の東南麓の畑の中にある。其処には元の次郎兵衛の邸宅を思わすような、千頭《ちかみ》という素封家の邸がある。小さな丘の蓮池城、其処には今でも城の兵糧であった焼米が出るとのことであった。大正九年八月、私はその蓮池城址に登って、その林の中で紅色をした大きな木の子を見つけて、それを採り、其処からおりて、畑の中で村の人がしょうがさま[#「しょうがさま」に傍点]と云っているその次郎兵衛の墓を見た。
渡守の常七は、渡船《わたし》小屋のなかで火を焚きながら草鞋を造っていた。静な晩で、小屋の前《さき》を流れている仁淀川の水が、ざわざわと云う単調な響をさしていた。常七はもう客もないらしいから寝ようと思いながら、藁を縦縄《たたなわ》から縦縄に通していた。
「渡船《わたし》……」
前岸《かわむこう》になった西の堤から大きな声が聞えて来た。常七は草鞋の手を止めた。
「渡船……」
また大きな声が聞えて来た。
「お――い」
常七はその声に釣り込まれて返事をしながら、
「このおそいのに、面倒な奴じゃ」
常七はのっそりと起ちあがって外へ出た。暗い晩で、川の水が処々鉛色に重《おも》光りがして見えた。石を重りにして磧へ着けてあった渡舟の傍へ往くと、常七は踞《かが》んで重りの石を持って舟へ乗り、それから水棹《さお》を張った。
「渡船……」
三度目の声が鼓膜を慄わして響いた。
「お――い」
舟は中流へ出た。常七は水棹を櫓に代えて斜に流れを切って舟をやった。舟はむこうの水際へ往った。舟底が磧の石にじゃりじやりと音をさした。常七は艫へ立って水棹を突張って客の来るのを待っていた。
「舟の用意はいいか」
何処からともなしに云った。常七はその威に打たれて、
「よろしゅうございます」
と云った。数人の人が舟へ乗り移るような物の気配がして舟が重くなったが、別に人の姿は見えなかった。常七は己《じぶん》の眼の故意《せい》ではないかと思って舟の中を見直した。それでも物の影はなかった。
「急いでむこうの岸へ渡せ」
直ぐ傍で声がしたが、やっぱり物の影も見えない。常七は水棹を持った手をわなわなと慄わした。そして、夢中になって舟を出した。
「これは、蓮池左京殿でござるぞ、不義奸侫の奴ばらに、眼にもの見せんと大高坂へお越になるところじゃ、今にその方達の耳へも、不思議なことが聞えて来るが、その方達にはお咎めがないから、恐れをことはない、帰りにもこの舟に召されるぞ」
舟は何時の間にか東の岸へ着いていた。常七は気がつくと舟を飛びおりて渡船《わたし》小屋へ駈け込んだ。
親実はじめ八人の死は、非常に人の同情を惹いた。それと共に親実の小高坂《こだかさ》の邸や木塚村の墓所には、怪しい火が燃えたり、弾丸のような火の玉が飛んで、それに当った人は即死する者もあれば、病気になる者もあった。これは八人の怨霊であると云いだした。八人御先、この恐ろしい八人の怨霊の噂は、大高坂を中心にして昂まって来た。仁淀川の渡守の見た奇怪も聞えて来た。
その時分であった。久武内蔵助の邸では、五つか六つになった末の男の子が、庭へ出て、乳母や婢《じょちゅう》に囃《はや》されて遊んでいた。小供は乳母の傍からちょこちょこと離れて、庭前《にわさき》の松の木の根元のほうへ往った。其処には小供の気に入りの小さな犬が、沙《すな》の上へ白い腹をかえして寝ていた。
「わんわん」
小供は犬の真似をしていた。松の傍から五十余りの髪の白い女が出て来た。乳母はその女に眼を留めてこの庭前に何しに来た人であろうかと不審した。
「※[#「※」は「女+朱」、第3水準1−15−80、84−9]《きれい》な若様じゃ」
老女はこう云って男の子に近づいて、隻手《かたて》をその肩にやった。男の子は大きな声を出してわっと泣いた。泣いたと思うと、そのまま仰向けに引っくり返って動かなくなった。乳母が驚いて大声をだすと、後の方にいた二人の婢も驚いて走って来た。
「水を、水を」
乳母は男の子を抱きあげて縁側の方へ走った。婢は狼狽《うろた》えて庭を彼方此方と走った。
「若様が大変じゃ、若様が大変じゃ」
乳母が縁側をあがろうとしていると、男の子は呼吸《いき》を吹き返して泣きだした。
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