のある声の主をぢつと見た。それは安松といふ仲間であつた。
「千吉か、」
「大変だつせ、有馬も、峰本も、皆な縛られましたがな、美風団に手が入りましたがな、」
「さうか、」
「早く逃げるが宜しうまつせ、」
清はとかとかと一人になつて歩いた、空には灰色の雲が流れて、荒い風が吹いてゐた。清はその風の吹く方へと歩いて行つた。
暗い横町がすぐ尽きて、電車通りになつた。一台の電車が右の方から音を立てゝ走つて来て、眼の前へと停まつた。清はその電車が何処行の電車であるといふことも、それから又自分は何処へ行かうといふことも考へずに、いきなりそれに飛び乗つた。そして、早く刑事の眼の届かない所へ行きたいと思つた。
電車が動きだすと、清はほつとした。しかし、それは一瞬時のことで、すぐ車の中の人が気になりだした。彼はすばしこく眼を使つて、一種の型を持つた容貌の者をその中から見出さうとした。
乗客は可成の人数で、十人ばかりの者は立つて釣革にすがつてゐた。清は先づ立つてゐる者からはじめて、次は自分の方の側に腰をかけてゐるものを見、それから向ふ側にゐる者を覗いた。それは殆んど電光のやうな早さであつた。
色の青い鼻の下にちよびりと髭を生やした中折帽の男が、前の入口に近い所に立つてゐるのが見えた。清はぎよつとした。それは見覚のある刑事の顔であつた。彼はしまつたと思つたが、逃げることも出来ないので、恐る恐る注意してみると、どうも自分のゐるのに気が付いてゐないやうであるから、そつと逃げてやらうと思つた。で、立つてゐる人の蔭になるやうにして、後の出口の方へ行つたところで、都合よく電車が停まつた。彼は車掌に切符を投げつけるやうに渡しており、走るやうに十足ばかり行つて振り返つて見ると、動き出した電車に添うて、中折帽を着た彼の刑事らしい者が此方を見て立つてゐた。
其処は橋の上であつた。清はいよいよ見付かつたやうだから、逃げられるだけ逃げやうと思つて走りかけた。それは中の島公園の上になつた橋で、すぐ下へとおりて行く階段の口があつた清はそれへとおりて行つた。
冷たい荒い風がぼつぼつ点いた電燈を吹いてゐた。と、見ると、白いジヤケツのやうな物を着た二三十人の者が、その附近をひらひらと雪女の群のやうに走つてゐた。清はマラソンの稽古をしてゐるな、と思つた。そして、自分もジヤケツを着てゐるから、あの中へ交つて走つて
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