れを見て、去る建暦三年和田佐衛門尉義盛が叛逆を起したころにも、こんな大地震があったと噂しあったということである。仁治元年四月の地震には海嘯《つなみ》があって、由比ヶ浜の八幡宮の拝殿が流れた。建長二年七月の地震は余震が十六度に及んだ。
正嘉元年八月の地震は、最もひどい地震で、関東の諸国にも影響を及ぼしている。それには神社仏閣、人家はもとより立っている建物の一軒もないように潰れ、山が崩れ、地が裂け、地の裂け目からは、泥水を吹き、青い火を吹いて、余震は月を越えた。そしてその翌年の八月に大風があり、三年に大飢饉があり、正元に入ってから二年続けて疫病があったので、日本全国の同胞は大半死につくしたように思われた。日蓮の立正安国論はこの際に出たものである。
永仁元年四月の地震も、正嘉の地震に劣らない地震であった。そのころは怪しく空が曇っていて、陽の光も月の光もはっきり見えなかったが、その日は墨の色をした雲が覆いかかるようになっていた。そして榎島の方が時時震い、沖の方がひどく鳴りだした。これはただごとではない、また兵乱の前兆か、饑饉疫癘の凶相かと、人人が不思議がっていると、午の刻になって俄かに大地
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