火もあるが盗賊が掠奪のための放火もあった。その盗賊は綱紀の緩んだのに乗じて京都の内外に横行した。袴垂、鬼童、茨木、一条戻橋の鬼なども、その盗賊の一人であろう。
二 地震海嘯の呪いある鎌倉
地震の記録をあさってみると、地震は政権に従って移動しているような観がある。藤原氏の手から政権を収めていた平氏が破れて、源氏が鎌倉に拠ると、元暦元年十月を初発として鎌倉に地震が頻発した。それは王朝時代には僻遠の地として、武蔵、相模の名で大掴みに記されていたものが、文化の発生と共に細かなことまで記される余裕ができたためか、それとも武蔵、相模方面の活動期になっていたのに偶然に遭遇したためであるか。その鎌倉には幕政時代の終りごろまで百四五十回の地震があって、骨肉|相食《あいは》んだ鎌倉史の背景となって、陰惨な色彩をいやがうえにも陰惨にして見せた。
その鎌倉の地震のうちで大きかった地震は、建保元年五月の地震で、それには大地が裂け、舎屋が破壊した。この建保年間には、元年から二年三年と続けて十数回の強震があった。安貞元年三月にも大地震があって、地が裂け、所所の門扉|築地《ついじ》が倒れた。古老はこ
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