尼になった老婆
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)棒手振《ぼてふり》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|撮《つま》み
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》
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なむあみだぶ、なむあみだぶ、こんなことを口にするのは、罪深い業でございますが、門跡様の御下向に就いて思い出しましたから、ちょっと申します。その時は手前もまだ独身で、棒手振《ぼてふり》を渡世にしておりました時のことでございますから、さあ、文政の二三年、いや、もうすこし後でございましたかな、東本願寺の門跡様が久かたぶりで御下向遊ばすと云うことになりますと、江戸は申すに及ばず、近郷近在にかけて、それはもう煮えかえるような大騒ぎ、わけて熱心な者は、江戸ではとてもお姿が拝めない、箱根あたりまで出かけて往って、お駕籠といっしょに歩いていたなら、万に一つも拝めないと云うことはないと申しましてな、藤沢から小田原にかけて、我も我もと出かけてまいりました。手前も門跡様がお着きになると云う日は、朝から渡世を休んで、鈴ヶ森の手前まで往って待ち受けておりました。ちょうど花の比《ころ》で、陽はまだ高うございました。風の無い暖かな日で、磯際へかけて溢れていた人の額に、汗が出ると云うような暖かさでございました。もう干潮に近い比で、海苔しびを立てた洲が一面にあらわれておりましたが、その日は干潟へおりて、海苔や貝を採る者も一人もないので、白い鴎が我が物顔に遊んでおりました。沖を見ますと、潮曇のようにどんよりと曇って、その間から房州の山が薄すらと見えておりました。
程なく門跡様のお駕籠がまいりましたと見えて、なむあみだぶ、なむあみだぶ、と、念仏を唱える声が波の打つように聞えてまいりました。そうなって来ると、その附近《まわり》にいた信者達は、狂人《きちがい》のような眼つきをして、お駕籠を見ようとしましたが、並木や人の頭ですぐは見えません。気の早い者は、それでも、もう、なむあみだぶ、なみあみだぶ、と念仏をはじめました。
先供をしている寺侍の笠が見えたかと思うと、門跡様一行の行列が見えてまいりました。念仏の声はますます高まってまいりました。人びとは前へ前へと出ますから、行列は右に曲り、左に折れて、真直に歩けませんでした。
そのうちに門跡様のお駕籠が眼の前にまいりました。大波の崩れるような念仏の声が四辺《あたり》に湧きかえりました。門跡様のお駕籠を拝もうとする者が我れ前《さき》にと雪崩を打って進みましたから、忽ちお駕籠が動かなくなりました。お駕籠の垂れは深ぶかとおろしてありますから、お姿を拝むことはできなかったのです。幸い手前の方におりましたから、お駕籠の中に物の気配のするのをはっきりと感じました。なむあみだぶ、なむあみだぶ、なむあみだぶ。
その時でありました。手前の背後《うしろ》の方から背の高い婆さんが、がむしゃらに人を突き退けるようにして前へ出て来ました。私もすんでのことに、その婆さんに突き飛ばされるところでありました。
「ひどいことをしやがる婆あだ」
「婆さん、後生の悪いことをするない」
などと、その婆さんに向って怒る人もありました。手前も癪に触りましたが、場合が場合でありましたからして、すぐ懐しい朋友《ともだち》のような気になって、婆さんのすることを見ておりました。婆さんの頭には白髪《しらが》の小さな髷がありました。婆さんはそのままお駕籠の傍へ寄って往って、垂れを頭ではねのけるようにして、頭をお駕籠の中へ突き入れました。手前はあまりな婆さんの仕打を見てまして、仏罰を恐れないのか、なんと云う後生の悪いことをする婆さんだ、と、怒るよりは、空恐ろしい思いをしましたところで、婆さんの頭は突き戻されるようにお駕籠の中から出るとともにその体は背後《うしろ》へよろよろとなりました。婆さんの額には、門跡様の白い青みがかった※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》なお手がかかっておりました。私は門跡様が婆さんを煩がって、お突きになったものだと思いました。婆さんの体のよろけぐあいから申しましても、それは、もう、たしかにお突きになったものであります。
ところで、遠くの方におりました者は、そのわけあいは判りませんから、婆さんの額にかかっておりました門跡様のお手を見ると、門跡様がその婆さんに特別にお手を触れられたものだと見てとりました。
「門跡様のお手が触れた、ありがたいことだ、なむあみだぶ、なむあみだぶ」
「彼《あ》の婆さんの頭に、門跡様のお手が触れた、なむあみだぶ、なむあみだぶ」
「
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