ありがたいことだ、ありがたいことだ」
「もったいない、もったいない、なむあみだぶ、なむあみだぶ」
皆婆さんの周囲《まわり》に集まって来て、門跡様のお手のかかっていたあたりへ、我も我もとその手を当てだしました。婆さんは迷惑して身をかわそうとしましたが、周囲《まわり》の人はだんだん多くなってきました。すると一人の壮《わか》い男が、婆さんの髪の毛を二三本指に撮《つま》んで抜き執りました。婆さんは痛いので頭を抱えて逃げようとしましたが、人が一ぱいで身動きができません、そのうちまた一人の老人が、壮い男がしたように一|撮《つま》みの髪を撮んで引き抜きました。他にも一人二人、また髪の毛に指をかけました。婆さんはもう泣き声を立てはじめましたが、信心に夢中になっておる人の耳へは入りません。婆さんの髷はこわれました。婆さんを囲んだ者は、もう我れがちに婆さんの髪の毛に指をかけて抜きました。
「助けてくれ、助けてくれ」
婆さんは手を揮って悶掻きましたが、何人《だれ》もそれに耳をかす者はありません。皆門跡様のお手の触ったありがたい毛を抜き執ろうと、一生懸命になって婆さんに武者ぶりつきました。
婆さんはもう気が遠くなって、死人のようになって人波に揉まれておりました。そのうちに婆さんの髪の毛が一本も無くなって、尼さんの天窓《あたま》になりますと、皆の者は婆さんを捨てて門跡様の行列を追って雪崩れて往きました。私もその雪崩の中へ巻きこまれて往きましたから、その婆さんはどうなったか知りませんが、ほんとうに可哀そうでございました。しかし、これが仏様の思召しでございましょう。なむあみだぶ、なむあみだぶ。
底本:「日本の怪談(二)」河出文庫、河出書房新社
1986(昭和61)年12月4日初版発行
底本の親本:「日本怪談全集」桃源社
1970(昭和45)年初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「頭をお駕籠の中へ突き入れました」の箇所は、底本では「頭をお駕籠へ中へ突き入れました」でしたが、親本を参照して直しました。
入力:Hiroshi_O
校正:小林繁雄、門田裕志
2003年8月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング