れさ、これさ」
「なるほど、これは。だがこなたの巻きぞえをくってはならぬから、遠国に往くつもりでござる、どうか路銀を」
「やろうにもくめんがつかぬ」
「くめんがつかねば、訴え出ようか」
「さあ、それは」
 伊右衛門はしかたなしに母親からもらっている墨付を長兵衛にやって帰し、それから竿をあげて帰りかけた。と、前の流れへ杉戸が流れて来たが、それが不思議に立ちあがったので、かけてあった菰《こも》が落ちた。其処には水で腐ったお岩の骨ばかりの死骸があった。伊右衛門は恐ろしいので杉戸を前へついた。杉戸は其のひょうしにばったりと裏がえしになった。裏には首へ藻のかかった小平の死骸があった。

       九

 お袖は山刀を持ってせっせと樒《しきみ》の根をまわしていた。其処は深川法乗院《ふかがわほうじょういん》門前で俗に三角屋敷と云う処であった。お袖は直助といて線香を売っているところであった。
 淡い冬の夕陽のふるえている店頭には、物干竿にかけた一枚の衣服《きもの》が風にひるがえり、其の傍の井戸端には盥《たらい》があって、それにはどろどろになった女物の衣服が浸けてあったが、それは金子屋《かねこや》と云う質屋の手代の庄七《しょうしち》が、質の流れだと云って洗濯物を頼んで来ているものであった。お袖は気になることがあるのか樒の根をまわすことをやめて、盥の傍へ往き、
「此の衣服《きもの》にはどうも見覚えがある、これはたしかに姉《あね》さんの」
 其の衣服はお岩の着ていたものであるが、お袖はお岩が死んだことを知らないので、そうと断定することができなかった。直助がそこへ帰って来た。
「これ、日が暮れかかったのに、干物《ほしもの》を入れねえか」
 直助が家へ入るのでお袖は追って入った。
「米屋さんが米を持って来たから、後《のち》までと軽《かる》う云っておいたよ」
「そうか」そして考えついて叺《かます》の莨入《たばこいれ》から彼《か》の櫛を出して、「此の櫛なら、いくらか貸すだろう」
 お袖はそれを見て驚いた。
「おや、その櫛は、そりゃ何処で拾ったのです」
「二三日前に、猿子橋《さるこばし》の下で鰻掻にかかったが、てめえ、何か見覚でもあるのか」
「ある段か、これは姉《あね》さんが、母《かか》さんの形見だと云って、大事にしていた櫛。それに庄七さんに頼まれた彼《あ》の衣服《きもの》と云い、どうしたこと
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