ひどいことをするものだ、男のわしでさえ愛憎《あいそ》がつきた。もし、お岩さん、あんな薄情な男と、何時までいっしょにいねえで、いっそわたしと」
宅悦はお岩の手を執って引き寄せた。お岩は驚いて其の手を揮《ふ》り払った。
「あれ滅相な、其の方は、まあ武士の女房に」
宅悦はいやしい笑いかたをした。
「いくら、おまえさまばかりが操をたてても、伊右衛門さまの心は、とうから変っております。今のうちに、わたしの云うことを聞く方が、おまえさまのためでござります」
「いくら所天《おっと》がどうあろうとも、私は私、けがらわしい。女でこそあれ武士の娘、不義を云いかけるとはもってのほか」
お岩はいきなり小平のさしていた刀を執って脱いた。宅悦はうろたえた。
「あ、あぶない」
宅悦はお岩に飛びかかって、其の刀をもぎ取ろうとした。お岩はそれを取られまいとして争っているうちに、どうした機《はずみ》か刀が飛んで欄間の下へ突きささった。お岩はよろよろとなった。
「は、はなして」
お岩は刀の方へ駈け寄ろうとした。宅悦はあわてた。
「ま、まあ、静にしてくだされ、今云ったのは、皆嘘でござります。いくら私が好奇《ものずき》でも、其のお顔では」
「え、私の顔がどうかなって」
「可哀そうに、何も知らずに服《の》んだ彼《あ》の薬は、血の道の妙薬どころか、まあ、これを見なさるがよい」
宅悦は櫛畳《くしたとう》から鏡を出した。お岩は急いで鏡に手をかけて己《じぶん》の顔を映したが、己の顔とは思われないので後《うしろ》を見た。
「何人《たれ》ぞ後に」後には何人《たれ》もいなかった。「こりゃ、わしかいの、ほんまにわしの顔かいの」
お岩は身をふるわせて泣きだした。宅悦は真箇《ほんと》のことを云わなくてはならなかった。
「いやがるわたしをおどしつけて、みだらなことをさしたのも、今夜喜兵衛の孫娘と内祝言《ないしゅうげん》をするために、おまえさまを追いださなくては、つごうがわるいからでござりますよ」
お岩はこれを聞くと狂人のようになった。
「もう此のうえは、死ぬより他はない」きっとなって、「息のあるうちに喜兵衛殿に礼を云う、鉄漿《かね》の道具をそろえておくれ、早う、早う」
宅悦はふるえていた。
「産後のおまえさまが、鉄漿をつけては」
「大事ない、早う、早う」
宅悦はお岩が狂人のようになっているので、何とかして止めよ
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