瞳人語
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)方棟《ほうとう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)田舎|女《むすめ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》
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 長安に、方棟《ほうとう》という男があった。非常な才子だといわれていたが、かるはずみで礼儀などは念頭におかなかった。路で歩いている女でも見かけると、きっと軽薄にその後をつけて往くのであった。
 清明の節の前一日のことであった。たまたま郊外を歩いていると、一つの小さな車がきた。それは朱の色の戸に繍《ぬい》のある母衣《ほろ》をかけたもので、数人の侍女がおとなしい馬に乗って蹤《つ》いていた。その侍女のなかに小さな馬に乗った容色《きりょう》のすぐれた女があったので、方棟は近くへ寄って往って覗いた。
 見ると車の帷《とばり》が開いていて、内に十六七の女郎《むすめ》がすわっていたが、紅く化粧をした顔の麗しいことは、今まで見たことのない美しさであったから、方棟はふらふらとなって我を忘れ、後になり前になりして従《つ》いて往った。そしてすこし往ったところで、女郎は侍女を車の側近く呼んで言った。
「わたしに戸をおろしてくださいよ、何処かの狂人《きちがい》でしょ、さっきから窺いてるのよ」
 そこで侍女は簾《すだれ》をおろして、怒った顔で方棟の方をふりかえって言った。
「これは、芙蓉城《ふようじょう》の七郎さまの奥様が、お里がえりをなさるところでございますよ、田舎|女《むすめ》を若い衆がのぞくようなことをせられては困ります」
 侍女はそう言うかと思うと轍《わだち》の土を掬《すく》うてふりかけた。土は方棟の目に入って開けようとしても開かなかった。それをやっとの思いで拭いおとして、車はと見たがもう影も形もなくなっていた。方棟は不思議な車もあったものだと思いながら家へ帰ってきたが、どうも目のぐあいが悪いので、人に瞼をあけて見てもらうと、睛《ひとみ》の上に小さな翳《くもり》が出来ていた。そして、翌朝になってから痛みがますます劇《はげ》しくなって、涙がほろほろと出て止まらなかった。それと共に翳もしだいに大きくなって、数日の後には厚
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