断橋奇聞
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)宝叔塔《ほうしゅくとう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)只|香勾《こうこう》を看よ

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(例)※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]を通って
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 杭州の西湖へ往って宝叔塔《ほうしゅくとう》の在る宝石山の麓、日本領事館の下の方から湖の中に通じた一条の長※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]を通って孤山に遊んだ者は、その長※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]の中にある二つの石橋を渡って往く。石橋の一つは断橋で、一つは錦帯橋《きんたいきょう》であるが、この物語に関係のあるのは、その第一橋で、そこには聖祖帝の筆になった有名な断橋残雪の碑がある。
[#ここで字下げ終わり]

 元の至正年間のこと、姑蘇《こそ》、即ち今の蘇州に文世高《ぶんせいこう》という秀才があったが、元朝では儒者を軽んじて重用しないので、気概のある者は山林に隠れるか、詞曲に遊ぶかして、官海に入ることを好まないふうがあった。世高もその風習に感化せられて、功名の念がすくなく、詩酒の情が濃《こまや》かであった。
 その時世高は二十歳を過ぎたばかりであったが、佳麗な西湖の風景を慕うて、杭州へ来て銭塘門《せんとうもん》の外になった昭慶寺の前へ家を借りて住み、朝夕湖畔を逍遥していた。ある日往くともなしに足に信《まか》せて断橋へ往ったところで、左側に竹林があってその内から高い門が見えていた。近くへ往って見るとその門には喬木世家《きょうぼくせいか》という※[#「匚<扁」、第4水準2−3−48]《がく》をかけてあった。
 世高は物好きにどんな庭園であるか、それを見てやろうと思って入って往った。槐《えんじゅ》と竹とが青々した陰を作った処に池があって、紅白の蓮の花がいちめんに咲いており、その花の匂いがほんのり四辺《あたり》に漂うているように思われた。世高はその庭の景致《けいち》がひどく気に入ったので、池の縁に立って佳い気もちになっていた。
「おや、綺麗な方だわ」
 若い女のすこしはすっぱに聞える無邪気な声が不意に聞えてきた。世高の眼はすぐ声のしたと思われる方へ往った。池の左、そこにある台※[#「木+射」、第3水準1−85−92]《だいしゃ》の東隣となった緑陰の中に小さな楼《にかい》が見えて、白い小さな女の顔があった。それは綺麗な眼のさめるような少女であった。
 世高は女のほうをじっと見た。そうした少女から己れの容姿を見とめられて、多感な少年がどうして平気でいられよう。彼は吸い寄せられるようにその方へ往きかけたが、ふと考えたことがあったので引返して門の外へ出た。それはその少女の素性を訊くがためであった。
 花粉《おしろい》や花簪児《かんざし》を売っている化粧品店がそのちかくにあった。そこには一人の老婆がいて店頭《みせさき》に腰をかけていた。世高はそこへ入って往った。
「すみませんが、すこし休ましてくれませんか」
 老婆は気軽く承知した。
「さあさあ、どうぞ、だが、あげるような佳いお茶がありませんよ」
 世高は老婆の信実《まこと》のある詞《ことば》が嬉しかった。彼は老婆に挨拶して腰をかけながら言った。
「お婆さんは、何姓ですか」
「今は施《し》姓ですが、母方のほうは李姓ですよ、所天《ていしゅ》が没《な》くなってから十年になりますが、男の子がないものだから、今にこうしております。私の所天の排行《はいこう》が十に当るから、人が私を施十娘《しじゅうじょう》というのですよ、あなたは」
「私は姑蘇の者で、文というのです、この西湖の山水を見にきて遊んでいるのですよ」
「では、あなたは風流の方ですね」
 世高は老婆がただの愚な田舎者でないことを知って、ものを訊くにもつごうがいいと思った。
「お婆さん、この隣に大きな門の家がありますね、あれはどうした家ですか」
「ありゃあ、劉万戸《りゅうまんこ》という武官の家ですよ、あんな大家だが、男のお子がなくて、お嬢さんが一人あるっきりですよ、秀英さんとおっしゃってね、十八になります、まだお嫁いりなさらないのですよ」
「十八にもなって嫁にゆかないとは、どういうわけでしょう、そんな家で」
「そりゃあね、お嬢さんが御標格《ごきりょう》が佳いうえに、発明で、詩文も上手におできになるから、相公《だんな》がひどく可愛がって、高官に昇った方を養子にしようとしていらっしゃるものだから、それに当る人がのうて、まだそのままになっておりますが、だんだんお歳がいくので、お可哀そうですよ」
「お婆さんは、そのお嬢さんを知っているのですか」
「お隣ではあるし、平生《いつも》出入して、花粉《おしろい》などを買っていただくから、お嬢さんはよく知っておりますよ」
「そうですか」
 世高はふとあまりせっかちに事をはこんではいけないと思いだした。で、女にはさして興味を感じていないようなふうをして、それから老婆に別れて帰ってきた。

 世高は帰りながら女に接近するには、あの老婆に仲介を頼むより他に途がないと思った。それには女の手一つでやつやつしくくらしているから、すこし金をやれば骨をおってくれるだろう、仲介者さえあれば、女の方でも自分を知ってくれているから、僥倖が得られないものでもないと思った。彼はそう思いだす一方で、女が自分に向って発した詞を浮べていた。
(おや、綺麗な方だわ)
 世高は昭慶寺の前の家へ帰ったが、女のことで頭がいっぱいになっていて、書籍《ほん》を見る気にもなれなかった。そして、夜になって榻《ねだい》の上に横になっても、女の白い顔がすぐ前にあるようで睡られなかった。
 そのうちに、世高の体は自然とうごきだして、家の外へ出て城隍廟《じょうこうびょう》へ往った。城隍廟へ往ったところで、世高ははじめて気が注《つ》いた。気が注くとともにかの女と天縁があるかないかを知りたいと思いだした。彼は廟の中へ入って往って、香を焼《た》き、赤い蝋燭をあげて祷った。
 みるみる城隍神の像が生きた人のようになって、傍の判官に言いつけて婚姻簿《こんいんぼ》を持ってこさした。判官が言いつけどおり帳簿《ちょうめん》を持ってくると、城隍神はそれを見てから朱筆を取り、何か紙片に文字を書いて世高にくれた。世高は何を書いてあるだろうと思って、それに眼をやった。それには爾《なんじ》婚姻を問う、只|香勾《こうこう》を看よ、破鏡重ねて円《まどか》なり、悽惶好仇《せいこうこうきゅう》と書いてあった。
 世高がそれを読み終ったところで、判官の喝する声がした。世高はびっくりして眼を覚した。世高ははじめて自分が夢を見ていたということを悟ったが、それにしてもはっきり覚えている四句の讖文《しんぶん》は不思議であると思った。世高はそれから讖文の破鏡重ねて円なり、悽惶好仇という二句の意味を考えてみた。それは合うことが有って離れ、離れることが有って合うから、時のくるのを待たなくてはならないというように考えられた。
 しかし世高は、そんな児戯に類する讖文を信ずることはできなかった。彼は夜の明けるのを待ちかねるようにして起き、そこそこに飯をすまして、断橋の施十娘の店へ往った。
 店では老婆が品物を並べていたが、終ってひょいと顔をあげたひょうしに、店頭へ来た世高を見つけた。
「相公《だんな》、お早いじゃありませんか、何か御用でもできたのですか」
「お婆さんに頼みたいことがあってね」
 世高は店の内へ入った。老婆はどんなことを頼まれるだろうと、その頼まれることが気になってたまらないというようにして顔を持ってきた。
「私に、どんなことです、か、ね」
「すこし頼みたいことがあって、ね」
 世高は懐から金を出して、それを老婆の袖の中にすばしこく入れた。それは二錠の銀子であった。
「お婆さん、私はまだ妻室《かない》がないから、媒人《なこうど》をたのみたいが」
 老婆には世高の眼ざしている者が何人《だれ》であるかということはすぐ判った。しかし、それは旅にいる無名の秀才では望みを満たすことのできないものであった。老婆はとぼけて言った。
「相公の頼みたいというのは、どこの姐姐《むすめ》さんですか」
「それかね、それは、昨日お婆さんが話してくれた、あの、劉さんの姐姐さんだよ」
 世高はきまりがわるいのできれぎれに言った。
「そいつは相公、だめですよ、他の姐姐さんなら、なんとか話を纏めますが、劉さんの方ですと、劉の相公はいっこくですから、杭州の城内の武官の中で、だんだん申しこんでおりますが、しょうちしないのです、それに旦那は旅の方でしょう、とてもだめですよ」
 老婆はそう言って世高の入れた袖の中の銀子を取りだした。
「これはお返しします、とてもできませんから」
「ま、まってください、まだ一つお話しすることがあるから、それを訊いてからにしてください」
 世高は老婆の金を持った手を押えるようにして、その口を老婆の耳の傍へ持っていった。
「お婆さん、私がこんなことをいうのは、お嬢さんを知らずに言ってるんじゃないのです、昨日ここへくる前に、あの家の中へ往って、庭を見物していると、お嬢さんが楼《にかい》の上にいて、私を見て、おや綺麗な方だわと言ったのです、だからお嬢さんも私を知ってるはずです、そっとお嬢さんに遇って、そんなことがあったかないかを確かめたうえで、私もお嬢さんのことを思っているということを言ってください、また晩方に来ますから」
 世高の話の中途から老婆は頻りにうなずきだしていた。
「そりゃ、ほんとでしょうね、お嬢さんが相公のことをほめたのは」
「ほんとですとも」
「ほんとならお嬢さんに言ってもいいのですが、いいかげんのことだったら、私が二度とお嬢さんにお眼にかかることができないのですからね」
「そりゃ大丈夫ですよ、どうかお嬢さんに取りついでください」
「では往ってあげてもいいが、こんなことは縁ですから、縁がなかったらできないことだと思ってくださいよ」
「縁がなければしかたがないですとも」
 世高は老婆と後刻を約して自分の家へ帰った。

 老婆の施十娘は、文世高からもらった銀子をしまい、午飯を喫《く》って、新しくできた花粉《おしろい》と珍しい花簪児《かんざし》を持って劉家へ往った。
 劉家では彼方此方していた夫人が、勝手口から入ってきた施十娘を見つけた。
「お婆さん、この比《ごろ》はちっともこないじゃないかね、どうしたのだね」
「あいかわらず、貧乏せわしいものですから、つい御無沙汰いたしました、今日は珍しい花簪児がまいりましたから、お嬢さんに御覧に入れようと思いまして」
「ああ、そうかね、それはいい、お前さんのくるのを待っていたところだよ」
 そこで老婆は一杯の茶をもらって、それを飲んでから秀英の繍房《へや》へ往った。秀英はその時楼の欄干に靠《もた》れてうっとりとしていた。それは昨日見た若い秀才の顔を浮べているところであった。
「お嬢さん、今日は」
 老婆が声をかけると秀英はびっくりしたようにして振りかえった。
「ああ、お婆さんか、いらっしゃい、お婆さん、この比ちっともこないじゃないの、今日は何か佳いものがあって」
「今日は佳いものがございましたから、御覧に入れようと思って、持ってあがりました」
 老婆は卓の上へ包みを置いて、その中から金の梗《みき》で銀の枝をした一朶《いっぽん》の花簪児を執って秀英の頭へ持っていった。
「きっとお似合いになりますよ」
 そして黒いつやつやした髪に挿してから、
「ほんとによくお似合いになりますこと、いっそのこと、そのつむりで、御婚礼なされて、この年寄にお喜びの盃をいただかしてくださいましよ」
 秀英はにっと笑って老婆の顔を見た。と、そこへ女中の春嬌《しゅんきょう》が茶を持ってきた。老婆はそれをもらって飲みながら言った。
「このお茶より
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