か、早くお喜びのお酒をいただきたいものでございますね、私は平生《いつも》お嬢さんがお眼をかけてくださいますから、その御恩報じに、佳いお婿さんをお世話いたしたいと思うておるのでございますよ」
「いやなお婆さん」
 口ではそう言ったが決してそれを嫌うような顔ではなかった。老婆はそっと四辺《あたり》に注意した。春嬌ももういなくなって秀英と自分の他には何人もいなかった。老婆は秀英の傍へぴったり寄って往った。
「お嬢さん、ちょっとお耳に入れたいことがございますが、お話ししてもよろしゅうございましょうか」
「どんなこと、いいわよ、お婆さんの言うことなら」
「では申しますがね、お嬢さん、あなたは昨日、ここからお池の傍へ来て立ってた方を、御覧になりはしませんでしたか」
 そう言い言い老婆は相手の顔色を伺った。秀英の瞼は微に紅くなった。
「見ないわ」
 しかし、それはほんとうに見ない返事ではなかった。
「でもお嬢さん、その方が今日私の処へまいりまして、昨日お嬢さんがここにいらっしゃるのを見かけて、そのうえお嬢さんからお声をかけられたと言って、ひどくお嬢さんの御標格の佳いことをほめておりましたよ」
 秀英は耳まで紅くしてしまった。老婆はここぞと思った。
「あの方は、蘇州の方で、文という方ですよ、才智があって学問があって、人品はあんなりっぱな方ですから、お嬢さんのお婿さんにしても、恥かしくないと思いますが」
 老婆はそう言って秀英の顔を見た。秀英は俯向いたなりに微に笑った。老婆はもう十中八九までは事がなったと思った。
「あの方は、お嬢さんにお眼にかかってから、お嬢さんのことを思いつめて、何回も何回も私の処へまいりまして、お嬢さんに、私の思っていることをつたえてくれと申します、どうかお嬢さん、何か返事をしてやってくださいましよ、ほんとにお気のどくですよ」
「でも、私、どう言っていいか判らないのですもの」
 秀英はそう言ってちょっと詞を切ったが、
「あの方は、これまで結婚したことがあるのでしょうか」
 老婆はすかさずに言った。
「ありません、そんな方なら決して私が媒人はいたしません、あの方はそんな軽薄な方ではありません、ほんとにあの方は、人品と申し御標格と申し、お嬢さんとは似あいの御夫婦でございますから、お取り持ちいたすのでございます、私にまかしていただけますまいか」
 秀英は点頭《うなず》いた。老婆は安心した。
「では、あの方に知らして、喜ばしてあげましょう」
 老婆は品物を包みの中に収めて帰ろうとした。秀英はその老婆の袂に手をかけた。
「お婆さんは、このことは、何人にも言っちゃ、厭よ」
「言うものですか」

 老婆は夫人にも挨拶して家へ帰った。店へはもう世高が来て待っていた。世高は入ってくる老婆の顔色を見て事のなったことを直覚した。世高はそこで秀英に詩を寄せることにして家へ帰って往ったが、その夜も興奮して眠られなかった。
 そして、朝になるのを待ちかねていた世高は、白綾の汗巾《はんけち》へ墨を濃くして七言絶句を書いた。
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天仙なお人の年少を惜む
年少|安《いずくん》ぞ能く仙を慕わざらん
一語三生縁已に定まる
錦片をして当前に失わしむること莫《なか》れ
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 世高はその詩を施十娘の店へ持って往った。
「お婆さん、どうかこれを届けてください、そして、お嬢さんから返事をもらってください、後でうんとお礼をしますよ」
 老婆はその詩を袂へ入れ、花粉や花簪児の荷を持って劉家へ往った。そして、勝手口から入って夫人に言った。
「昨日、お嬢さんに、佳い花簪児を選んでいただきましたが、今日はそれよりも佳い品が見つかりましたから、持ってあがりました」
 老婆はそう言って夫人の前をつくろって、秀英のいる楼上《にかい》へ往った。楼上には秀英が榻《ねだい》の上に横になっていた。老婆はずかずかとその傍へ往った。
「お嬢さん、昨日は失礼いたしました」
 老婆は袖の中からかの詩を出して秀英の手に置いた。秀英はそれに眼をやった。
「佳い詩だわ、ね、え」
「どうか、それに次韻《じいん》してくださいまし、あの方がそれを待っておりますから」
 秀英は詩から眼を放してにっと笑った。
「私にはできないのだもの」
「そんなことをおっしゃらずに、願います」
「そう」
 秀英は傍の箱のなかから自分で繍《ぬい》をした汗巾を出してきて、それに筆を染めた。
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英雄自ら是れ風雲の客
児女の蛾眉《がび》敢て仙を認めんや
若し武陵|何処《いずれのところ》と問わば
桃花流水門前に到《いた》れ
[#ここで字下げ終わり]
 老婆はその詩を見て世高を秀英の許へやってもいいと思った。老婆は秀英にその意を含めた。しかし、秀英にはどうして来る人を迎えていいか判らなかった。
「今晩、遅く皆さんが寝静まった時に、花園の中の、あの石のある処へいらして、そこの樹へ索《なわ》を結《ゆわ》えて、その端を牆《へい》の外へ投げてくださるなら、あの方がすがってあがりますよ」
「では鞦韆《ぶらんこ》の索を投げましょうか、あすこに大きな樹があるから、それを結えましょうか、牆からあの樹を伝うなら、わけなくこられるのですよ、でも、あの樹は枯れかかってるからあぶないのですよ」
「いいでしょう、そんなことは、男の方ですから」
 そこで話ができたので老婆は帰ろうとした。秀英はそこへ繍鞋児《くつ》を出してきた。
「これをどうか、あの方に、ね」
 老婆は詩と繍鞋児を袂へ入れ荷物を持って帰ってきた。

 老婆の店に待っていた世高は、両手で拳をこしらえて耐えなければ、気でも違いそうに思われるような喜びに包まれた。彼は一度家へ帰って、夜になるのを待ち、新しい衣服《きもの》に著更えて再び老婆の許へ往った。
 老婆は時刻をはかって世高を裏門口へ伴《つ》れて往った。そこには青白い月の光があった。二人はその光に映しだされないようにと暗い処へ身を片寄せていた。
 微な物音がして索の端が劉家の牆の上から落ちてきた。それは鞦韆の索であった。老婆は無言で世高を促した。
 世高はその索に手をやってちょっと引き嘗《こころ》みてから攀《のぼ》って往った。世高の体はやがて牆の上になったがすぐ見えなくなった。老婆はそれを見ると世高が首尾よく劉家へ入れたと思ったので、裏門を閉めて引込んでしまった。
 世高は牆の上からそこに枝を張っている老樹の枝に移って、そろそろと下の方へおりて往った。おりてゆくうちにその枝が折れてしまった。世高はそのまま下へ墜ちたのであった。
 鞦韆の索を投げて世高の来るのを待っていた秀英は、月の光に世高が牆の上にあがってきて、それから老樹の枝に移ったのを見て喜んだが、喜ぶまもなく世高が墜ちたので、気を顛倒さして走って往った。
 世高は棲雲石《せいうんせき》の上に倒れていた。秀英はそれに手をかけた。
「もし、もし、お怪我をなされたのではありませんか」
 世高は返事もしなければ動きもしなかった。耳を立てても呼吸もしなかった。秀英は慌てて世高の体を彼方此方と撫でたが、体は依然として動かなかった。
 暗い谷底につき落されたようになった秀英の頭に、世高の屍から起る両親の譴責が浮んできた。それに自分のために世高が死んでいるのに、自分独りが生きてはいられないと思った。彼女は鞦韆の索を枝に結えなおして泣いた。

 了鬟《じょちゅう》の春嬌はねぼうであったし、その晩は早くから秀英の許可を受けて寝ていたので、変事のあったことは知らなかった。それに毎朝秀英に起されて起きるようになっている春嬌は、その朝は起してがないのでいつまでも眠っていると、夫人が秀英の顔を洗う湯を取って楼上へあがってきた。
 春嬌はその夫人の声ではじめて眼を覚ました。夫人は春嬌にこごとを言ってから秀英の臥牀《ねどこ》へ往った。臥牀には秀英の姿が見えなかった。夫人はそこで春嬌に秀英のことを訊いたが、春嬌には判らなかった。
 夫人は下へおりて往った。花園の中の棲雲石の上には若い男が横たわっており、老樹の枝には秀英が縊《くび》れていた。夫人は狂人のように走って往って、秀英の体を抱きあげた。
「早く、これを、これを」
 春嬌もそれとみて傍へ走って往ったが、どうしていいか判らなかった。夫人は春嬌を叱りとばしてその索を解かし、秀英を下へおろして体を撫でたり、口に気息《いき》を吹き込んだりしたが蘇生しなかった。
 夫人は泣きながら自分たちの寝室の中へ入って往った。そこには夫の劉万戸がまだ寝ていた。劉万戸は夫人から凶変を聞くと、顔色を変えてとび起き、そそくさと花園へ駈けつけた。
 花園には若い男と自分の女《むすめ》が醜い死屍《しがい》を横たえていた。劉万戸は自分の頭へ糞汁をかけられたような憤《いかり》をもって、その死屍を睨みつけていたが、ふと二人の関係が知りたくなった。傍には春嬌が蒼い顔をして立っていた。
「春嬌、きさまが知っているだろう、さあ言ってみろ」
 春嬌はおどおどしていたが、黙っている場合でないと思った。
「私は、私は、すこしも存じません、それは施十娘がしたことでございます」
 劉万戸は後になってつまらんことを聞いてもしかたがないから、早く死骸の始末をしようと思いだした。それにしても名も素性も判らない男の死骸の始末には困ったのであった。彼は夫人を見て言った。
「これの死骸はいいとして、その男の方はどうしたものだろう」
 劉万戸はそこで施十娘のことを思いだした。
「いずれにしても、あの婆を呼んでこい、施十娘を呼んでこい」
 劉万戸の命令は春嬌の口から家人へ伝えられた。二人の家人は走って施十娘の店へ往った。
 夜の内に帰るはずの文世高が帰らないので、朝早く起きて裏門口へ容子を見に往ったりしていた老婆は、劉家の使に接して心が顫えた。しかし、病気でもないのに往かないわけにゆかないので、おそるおそる使の者に随いて往った。
 使の者は老婆を花園の方へ導いた。そこには夫人が泣きながら立っていた。
「お婆さん、お前さんは、よくもうちの児《こども》を殺してくれたね」
 老婆は文世高の忍び込んだことが顕われたと思った。
「奥様、私は何も存じません、ただ文世高とお嬢さんが、想いあって、詩のやりとりをしておったことは知っております」
「お婆さん見てやってくださいよ、うちの児はこんな姿になりましたよ」
 棲雲石のそばには二つの死骸が見えて劉万戸が立っていた。老婆はふらふらその傍へ往った。血の気を失った文世高の顔、秀英の顔。老婆は心から悲しくなって泣きだした。その老婆の耳へ劉万戸の声が聞えてきた。
「佳いことをしでかしてくれて、泣いてもらうにはおよばないよ、だが、しかし、もう、なんと言ってもおっつかない、それよりは他へ知れないように、この二つの死骸の始末をしなくてはいけない、小厮《やといにん》にも知らさずに、そっと始末したいが、なんか婆さんに佳い考えはないかな」
 老婆はもう泣くのをやめていた。
「それは、わけはありません、私の姪《おい》が棺屋をしておりますから、李夫《りふ》といいますが、あれに二人入る棺をこしらえさして、夜、そっと持ちだして葬ったら、何人にも知らさずにすみますよ」
 劉万戸は夫人と相談して施十娘に三十両の銀子をわたした。施十娘はその金を持って姪の許へ往って耳うちした。
 そこで棺屋の李夫は、急いで大きな棺をつくり、二三人の者にそれを舁《かつ》がして、その日の黄昏時《たそがれどき》、劉家の裏門へ忍んで往くと、門口には春嬌が待っていて戸を開けて内へ入れた。
 そして、棺は家の内へ運ばれたが、ひとまず棺舁《かんかつぎ》どもは外に出されて李夫が一人残り、そこにあった男女二人の死骸を棺の中へ収めた。収め終ると、夫人が泣く泣く秀英の首飾や花簪児の類を持ってきてその中へ入れた。李夫はその容《さま》を盗むように視ていた。
 やがて棺桶は持ちだされて、天笠山《てんりゅうざん》の麓へ運ばれ、同地の風習に従って軽く棺の周囲《まわり》に土を被せかけて葬られた。
 そこには月の光があっ
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