からともなく犬の吠えるような声が聞えた。飛脚はふと耳を傾けた。吠えるような声はまた聞えて来た。その声ははじめのような一疋の声ではなかった。それは水に投げた石の波紋が四方に広がって往くように、その声は次第次第に吠え広がって来て、其処にも此処にも聞えだした。それは、狼の声であった。
 飛脚は女の体を直して背を葛に寄せかけ、仰向けに蹲んでいられるようにして、嬰児をその懐に入れ、上から一枚の衣服《きもの》をかけてやった。
 狼の声は近づいて来た。飛脚は手に隙が出来たので腰から煙草入を抜いて、火打をこつこつ打って火を点けながら煙草を喫《の》んでいた。
「あれは、なんでございましょう」と、女が恐ろしそうに聞いた。
「あれが狼じゃ、狼でも私《わし》が控えておるから、大丈夫じゃ、心配せんでも好い」と、飛脚は落ちついて煙草を喫んでいた。
 物凄い狼の声がもう脚下の方に起って、四辺《あたり》が一面に物騒がしくがさがさと鳴りだした。
「来たな」と、飛脚は煙草の吸い殻を下に落して、煙草入をさし刀の目釘をしめして待っていた。
 狼の群は二人のあがっている樹の周囲《まわり》をくるくると廻りはじめた。そして、廻りな
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