狸と俳人
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)安永《あんえい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|疋《ぴき》
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安永《あんえい》年間のことであった。伊勢大廟《いせたいびょう》の内宮領《ないぐうりょう》から外宮領《げくうりょう》に至る裏道に、柿で名のある蓮台寺《れんだいじ》と云う村があるが、其の村に澤田庄造《さわだしょうぞう》という人が住んでいた。
庄造は又の名を永世《ながよ》と云い、号を鹿鳴《ろくめい》と云って和歌をよくし俳句をよくした。殊に俳句の方では其の比《ころ》なかなか有名で、其の道の人びとの間では、一風変ったところのある俳人として知られていた。
庄造は煩雑《はんざつ》なことが嫌いなので、妻も嫁《めと》らず時どき訪れて来る俳友の他には、これと云って親しく交わる人もなく、一人一室に籠居《ろうきょ》して句作をするのを何よりの楽しみにしていた。
某年《あるとし》の晩秋の夕《ゆうべ》のことであった。いつものように渋茶を啜《すす》りながら句作に耽《ふけ》っていた庄造が、ふと見ると窓の障子へ怪しい物の影が映っていた。庄造は不審に思って衝《つ》と窓の障子に手をかけたが、何人《たれ》か人だったら気はずかしい思いをするだろうと思ったので、其のまま庭前《にわさき》へ廻って窓の外を見た。窓の外には一|疋《ぴき》の古狸が蹲《うずく》まっていたが、狸は庄造の姿を見ても別に逃げようともしないのみか、劫《かえ》ってうれしそうに尻尾を掉《ふ》るのであった。庄造は興《きょう》あることに思って、家《うち》の中から食物を持って来て投げてやった。と、狸は旨《うま》そうにそれを食ってから往《い》ってしまった。
其の翌日《あくるひ》の夕方も庄造が書見をしていると、又窓の外へ狸が来て蹲まった。庄造は又食物を持って出て、狸の頭を撫でたりしたが、狸はちっとも恐れる風がなかった。
其の狸は其の翌晩もやって来た。庄造は待ちかねていて座敷へ呼び入れた。狸は初めの間は躊躇している様子であったが、やがて尻尾を掉りながらあがって来た。そして、庄造が書見をしている傍に坐って一人で遊んでいたが、暫らくすると淋《さび》しそうに帰って往った。
それから狸は毎晩のようにやって来た。庄造は淋しい一人|生活《ぐらし》の自分に良い友達が出来たような気がして
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