庭の怪
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)瓦盃《かわらけ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「竹」かんむりの下に「録」の旧字、第3水準1−89−79、74−2]
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 加茂の光長は瓦盃《かわらけ》に残りすくなになった酒を嘗めるように飲んでいた。彼はこの二三日、何処となしに体が重くるしいので、所労を云いたてにして、兵衛の府にも出仕せずに家にいた。未だ秋口の日中は暑くて、昼のうちは横になったなりに体の置き処のないようにしているが、ついうとうとして夕方になってみると、幾らか軽い気もちになっているので、縁側に円蓙《まるござ》を敷かして、一人でちびりちびりと酒を飲むのであった。
 月の無い静な晩であった。庭の前《さき》には萩が繁り芒が繁っていたが、その芒にはもう穂が出て、それが星の光を受けて微《かすか》な縞目を見せていた。光長はその眼をおりおり庭のほうへやったが、おもいだすと瓦盃の縁に唇を持って往った。
 静な跫音がすぐ傍で聞えたので、光長はちょと顔を左のほうへ向けた。其処には切灯台の微《うす》紅い灯《ひ》がほっかりと青い畳の上を照らしていたが、その灯の光に十五六に見える細長い顔をした女《め》の童《わらべ》の銚子を持った姿をうつしだしていた。
「おお、酒を持って来たか、其処へ置くが好かろう」
 女の童は静に傍へ寄って釆て、口の長い素焼の銚子を光長の前へ置くなり、黙って引きさがって往った。
 光長は思い出したように空になった瓦盃の銚子の酒を注《つ》いだが、注いだなりにそれを持つのが如何にも大儀だと云うような容《さま》をして見詰めていた。庭の何処かで虫の鳴くのが聞えて来た。光長はそれを聞くともなしに聞いていたが、手許が淋しくなったので、やるともなしに瓦盃に手をやって、今度はひと思いに口の縁へ持って往って、飲んで見ると気もちが宜いから一口に飲んでしまった。
 光長の頭はみょうに重どろんでいた。何を考えるにも億劫で、それで何もかも面白くなくて、己《じぶん》の存在を持てあましているとでも云うような状態にあった。しかし、光長にはこれと云う不平があると云うわけではなかった。公のことも家庭のことも、皆彼の思うようになっていて、すこし
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