ので、其処へ宿を頼みに往くということはあまり苦にもならなかった。
杜陽は小座敷の前へ往って中を覗き込みながら扉《と》を叩いた。
「もし、もし、しょうしょうお願いいたします」
中から年とった男の声がした。
「何人《だれ》だ、何人だ、この夜更けに、何の用だ」
杜陽は言った。
「壑の中へ墜ちて、困っておる者でございます」
「なに、壑の中に墜ちて困ってる」
中の声は驚いたように言ったが、それといっしょに扉が開いて髪の長い痩せた男が顔をだした。
「壑へ墜ちたって、それじゃお前さんは、他《ほか》から来たのじゃな、どうして、ここへ来られたのじゃ」
「この山の上の道をあるいておりますと、虎が出てきて僕を噛もうとしましたから、逃げようとする拍子に、足を踏みそこなって、この壑の中へ墜ちましたが、運好く落葉の上へ墜ちましたから、すこしも怪我はしませんでした」
痩せた男は何か思いだしたようにして眼を瞠《みは》った。
「それじゃ、あなたは、杜陽さんでございますね」
杜陽は驚いた。
「どうして、それが判ります、私は杜陽ですが」
「家《うち》の旦那様が、あなたのいらっしゃるのをお待ちかねでございます、さ、どうか、暫く此処でお休みください、申しあげてまいりますから」
痩せた男は体を片寄せて杜陽の入るのを待っていた。
「そうですか」
杜陽は不思議でたまらなかったが、痩せた男が自分の入るのを待っているので立っているわけにもゆかなかった。彼はそのまま内へ入ったが依然としてその意味は判らなかった。
「どうぞ、暫く此処でお休みくださいませ」
痩せた男は其処にある牀《こしかけ》に手をさしながら内の方へ顔を向けて言った。
「婆さん、婆さん、早く来てくれ、お客さんがいらしたのだよ」
杜陽は牀に腰をかけた。
室《へや》の一方の扉が開いてずんぐりした年取った女が入ってきた。
「お客さんがいらしたから、俺は旦那様に申しあげてくる、それまでお前は、お客さんのお相手をするがいい、いいか、そそうのないように気をつけろよ」
痩せた男は女房と擦れ違うようにして外へ出て往った。杜陽はその女にこの家のことを聞いてみようかとおもったが、みょうに口が渋って詞《ことば》が出なかった。しかし、この不思議な自分が壑底に墜ちるのを待っていたという一家の素性を、どうかして知りたいという欲望は、火のように熾烈《しれつ》を極めていた。彼はふと此処は人間界でなくて、人がよくいう仙境か何かではあるまいか、それでなくて自分が此処へくることまで判っているはずはないと思いだした。それにしても、いかにも珍客を待ちかねているようにしているのは、どういうわけであろうかと彼はまた思った。
扉が開いて※[#「糸+逢のつくり」、29−11]紗燈《ほうしゃとう》を持った少年を伴《つ》れて痩せた男が入ってきた。燭《ともし》の燈は杜陽の眼にひどくきれいに見えた。
「どうもお待たせいたしました。旦那様が、お待ちかねでございます、さあどうぞ、此方へおいでくださいますように」
痩せた男は急いできたと見えて呼吸《いき》をはずましていた。
「そうですか、旦那はどうした方ですか」
杜陽は起ちながら言った。
「いらしてくださいますなら、すぐお判りになります、さあどうぞ」
痩せた男と※[#「糸+逢のつくり」、30−2]紗燈の少年が往きかけるので、杜陽は随《つ》いて往ったが気がわくわくしておちつかなかった。
朱塗の門を入ると大きな建物がきた。それは王侯の邸宅といってもいい建物で、柱にも楹《たるき》にもいちめんに彫刻のしてあるのが見られた。其処には昼のように燈の光が漂うていて、傍を使用人達が往ったり来たりしていた。杜陽が気が注《つ》いてみると、たくさんの者が柱の陰や庭の隅に集まって此方を覗くようにしているのが見えた。白粉《おしろい》をつけて眉ずみをした女の顔が重なって、それが笑声をして囁きあっている処もあった。杜陽は気おくれがして歩けなかった。
「此方で澡豆《おゆ》をさしあげます」
痩せた男は一室の扉を開けて入った。杜陽は自分の頭では何も考えられないので、彼の言うなりになって室《へや》の中へ入った。少年の一人が瓶に湯を盛って待っていた。
「お湯の加減はよろしゅうございます、どうかお使いくださいますように」
そう言ってから少年は出て往った。もう痩せた男もいなくなって杜陽は独りになっていた。彼は汚れた上衣を脱いでとろとろした湯で顔を洗い、汗になった肌を拭った。
「お召し更えを此処へ置いてまいります」
いつの間に入ってきたのか少年が※[#「竹/匪」、第4水準2−83−65]《はこ》へ新しい衣服《きもの》を入れて持ってきていた。杜陽はそれを受け取って着更えをしたが、不安でたまらなかった。
「お供をいたします」
※[#「糸+逢
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