陳宝祠
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)杜陽《とよう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「糸+逢のつくり」、29−11]紗燈《ほうしゃとう》
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杜陽《とよう》と僕《げなん》の二人は山道にかかっていた。足がかりのない山腹の巌《いわ》から巌へ木をわたしてしつらえた桟道《かけはし》には、ところどころ深い壑底《たにそこ》の覗かれる穴が開いていて魂をひやひやさした。その壑底には巨木が森々と茂っていて、それが吹きあげる風に枝葉をゆうらりゆらりと動かすのが幽《かすか》に見えた。
壑の前方《むこう》の峰の凹みに陽が落ちかけていた。情熱のなくなったような冷たいその光が微赤《うすあか》く此方《こちら》の峰の一角を染めて、どこかで老鶯《ろうおう》の声が聞えていた。杜陽は日が暮れないうちに、宿駅《しゅくば》のある処へ往こうと思って気があせっていた。
その数年間、年に一二度は往復している途であるが、一歩を過《あやま》れば生死のはかられない道であるから思うようには急げなかった。彼は蒲東《ほとう》から興安《こうあん》へ出て布店《ぬのみせ》をやっている舅《おじ》の許《もと》にいて、秦晋《しんしん》の間を行商している者で、その時は興安へ帰るところであった。
その日は褒斜《ほうしゃ》を朝早く出発していた。その危険な道の中でもわけて危険な処があると、二十歳になったばかりの若い主人は僕に注意した。
「おい、あぶないよ、此方を歩かないといけないよ」
小柄な色の白いまだどこか小供小供したところのある男は細かい神経を持っていた。
「おい、そんな処を歩いてはいけない、あぶないじゃないか」
道は山の出っ鼻を廻って往った。樹と巌が入り乱れた処があって、夕陽の光が山風の中に物凄い色を見せていた。僕がさきになってその方へ往った。左側には深い壑があった。
道は爪前《つまさき》さがりになっていた。杜陽は滑らないように脚下《あしもと》に注意していた。と、不意に僕の叫ぶ叫び声がした。それはなんとも形容のできないおそろしい声であった。杜陽はびっくりして前の方を見た。牛ほどもあるおおきな獣が後ろにのけぞった僕の胸のあたりに口をやっているところであった。杜陽は後ろへ逃げようとした。そのはずみに足を踏みはずして、そのまま壑の中へ墜《お》ちて行った。
杜陽は意識が回復してきた。彼は眼を開けた。大きな樹の幹が微暗《うすぐら》い中に見えていた。彼は自分は壑の中へ墜ちたが運好く死なずにいるな、と思いだした。そう思うと彼の心に喜びが湧いてきた。余裕のできたその心には、虎に噛まれようとしていた僕のむごたらしい姿も映ってきた。
杜陽は体を起そうとした。体の下には朽葉が木綿《もめん》の厚い蒲団を敷いたように柔かく積み重なっていて、突いた手に力が入らなかった。彼は注意して起きながら、この朽葉の上へ墜ちたから怪我もしなかったのだと思った。
杜陽は四辺《あたり》に眼をやった。大木がいちめんに生えて下の方は微暗かったが、梢の方の枝と枝との間には明るい空があって、そそり立った山の尖《とが》りが見えていた。枝には風があった。杜陽はどうして道のある処へ出たものだろうと思って注意した。其処は険しい切り断った瓶の底のような壑の底で、翅《はね》のないかぎりあがって往くというようなことは想像にも及ばなかった。彼が折角無事であったことを喜んだのも束の間の喜びであった。
四辺が一層暗くなってきた。杜陽はおどろいて梢のほうを見た。陽が暮れて碧い空が燻《くす》ぼり、山の尖りももう見えなかった。其処には一つの石が犬の蹲《うずくま》ったように朽葉の中から頭をだしていた。彼はその石へ崩れるように腰をかけた。
風が凪いでしまって渓河《たにがわ》の音が耳についてきた。杜陽は起きあがった。彼は其処にいるにしても猛獣毒蛇の恐れがあった。往くとしたなら猛獣毒蛇の恐れのうえに断崖絶壁の恐れがあったが、しかしそれには径《こみち》を見つけ、人家を見つけるという万一を僥倖せられないこともなかった。
杜陽はとぼとぼ朽葉の上を踏んで往った。燈の光のような光がちらちらと樹の間から見えた。赤味を帯びたほっかりしたその光は、燈の光より他の光ではないと思った。彼は甦ったように喜んで歩いた。
林の樹はすぐなくなって燈の光がはっきり見えてきた。其処は四辺がきれいに開けていた。燈の光は其処に人家の塀らしいものをぼんやりと映しだした。
杜陽は真直に歩いて往った。大きな邸宅の門が見えて、その燈の光の出ている門傍の小座敷もはっきり見えてきた。彼は行商をして往き暮れて時どきそうした家へ宿を取っている
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