太虚司法伝
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)馮大異《ひょうたいい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大|胯《また》に歩いて

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「休+鳥」、第4水準2−94−14]※[#「留+鳥」、第4水準2−94−32]《ふくろう》
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 馮大異《ひょうたいい》は上蔡《じょうさい》の東門にある自分の僑居《すまい》から近村へ往っていた。ちょうど元の順帝の至元丁丑《しげんていちゅう》の年のことで、恐ろしい兵乱があった後の郊外は、見るから荒涼を極めて、耕耘《こううん》する者のない田圃はもとの野となって、黄沙と雑草が斑《まだ》ら縞を織っていた。兵燹《へいせん》のために焼かれた村落の路には、礎《いしずえ》らしい石が草の中に散らばり、片側が焦げて片側だけ生きているような立木が、そのあたりに点在して、それに鴉のような黒い鳥が止まって侘しそうに鳴くのが聞かれた。
 斜陽《ゆうひ》に影をこしらえて吹いてくる西風が、緑の褪《あ》せた草の葉をばらばらと吹き靡かせ、それから黄沙を掻きまぜて灰のような煙を立てた。その風に掻きまぜられた沙《すな》の中から髑髏《どくろ》や白骨が覗いていることがあった。しかし、才を恃《たの》み物に傲《おご》って、鬼神を信ぜず、祠《やしろ》を焼き、神像を水に沈めなどするので、狂士を以て目せられている大異には、そんなことはすこしも神経に触らなかった。
 ただ大異の困ったのは、目的地がまだなかなかこないのに日が暮れかかって、宿を取るような人家のないことであった。大異は普通の人のようにあわてはしないが、寒い露の中で寝ることは苦しいので、どんな小家の中でも好い、また家がなければ野祠《のやしろ》の中でも好いから、一泊して明日ゆっくり往こうかと思い思い、眼を彼方此方へやっていた。
 森があり、丘があり、遥かの地平線には遠山の畝《うね》りがあったが、家屋の屋根らしい物は見当らなかった。大異はそれでももしや何かが見つかりはしないかと思って、注意を止めなかった。薄い金茶色をして燃えていた陽の光がかすれて風の音がしなくなっていた。大異は西の方を見た。中の黒い緑の樺色《かばいろ》をした靄のような雲が地平線に盛りあがっていて、陽はもう見えなかった。
 鴉の声が騒がしく聞えてきた。大異はもうあわててもしかたがないから、このあたりで一泊しようと思った。栢《すぎ》の老木が疎《まば》らな林をなしているのが見えた。騒がしい鴉の声はその林から聞えていた。木の下なれば草の中に寝るよりはよっぽど好いと思った。大異は林の方へ往った。
 林の外側に並んだ幹には残照《ゆうばえ》が映って、その光が陽炎《かげろう》のように微赤《うすあか》くちらちらとしていたが、中はもう霧がかかったように暗みかけていた。大異は林の中へ入ってすぐそこにあった大木の根本へ坐って、幹に倚《よ》っかかり、腰の袋に入れていた食物を摘《つま》みだして喫《く》いはじめた。
 ※[#「休+鳥」、第4水準2−94−14]※[#「留+鳥」、第4水準2−94−32]《ふくろう》の鳴く声が鴉の声に交って前《むこう》の方から聞えてきたが、どこで鳴いているのか場所は判らなかった。ふおうふおう、ふうふう、ふおうふおうというように鳴く※[#「休+鳥」、第4水準2−94−14]※[#「留+鳥」、第4水準2−94−32]の声の後から、また獣の鳴くような声も聞えてきた。心に余裕のある大異は、うっとりとそれらの声を聞きながら食事をしていた。
 頭の上の方で騒がしく鳴いていた鴉が、急に枝葉をかさかさいわしながらおりてきはじめた。五羽、十羽、二十羽。それが鳴きながら一方の跂《あし》だけで地べたをとんとんと飛ぶのもあれば、羽ばたきをしながら走るのもあって、それが大異の周囲をぐるぐると廻りだした。
 鴉はみるみる数百羽になって、かあかあ、があがあと何か事ありそうに叫びながら廻った。大異はもう食事するのを輟《や》めていた。不思議な鴉の容子を見ていた大異の眼は、すぐ左の方の鴉の群の廻っている所に、四つばかり干からびた死骸のあるのを見つけた。大異は今までなかったものであるのに、どういうものだろうと思って、やるともなしに右の方へ眼をやった。と、そこにも五つばかり死骸のあるのが見えた。大異はなんだか気になってきたので、自分は夢でも見ているのではあるまいかと思った。
 冷たいしめっぽい風が枝葉に音をさして吹いてきた。大異が気が注《つ》いて顔をあげたところで、大粒の雨がばらばらと落ちてきた。大異は驚いて顔をひいた。白いぎらぎらする光が林の中をかっと照らした。と、
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