えていた。
「花岡先生のお出でじゃ」
「花岡先生じゃ」
 出迎人は口々に云って狸の医師の手を執るようにして案内した。甚内は夢のような心地で跟いて往った。往ってみると大きな座敷があって、其処には数多《たくさん》料理をかまえてあった。
「何はともあれ、まあお一つ」
 出迎人の一人は狸の医師に盃をさし、それから甚内にも盃をくれた。その酒の味はまたとない好い味であった。
 そのうちに狸の医師は、診察にと云って席を起った。甚内はやはり肴を喫《く》い、酒を飲んでいたが、若し狸が失敗しては大変だと思ったので、ふと顔をあげて見た。と、隣の座敷にしめやかな話声がする。それは狸の医師の声で、病人のお嬢さんは、其処に寝ているらしかった。甚内は襖の隙から覗きたいと思って、注意すると小さな穴があったので其処へ隻眼をやった。髪の黒い※[#「※」は「女へん+朱」、247−8]《きれい》な女の寝ている枕頭に狸の医師が坐って、その手の脈を執っていた。
 甚内は狸にたぶらかされていた。彼は村の背後《うしろ》になった山の上の、土地の人からカンカン岩と呼ばれている岩の穴に眼をやって、一心になって覗いていた。
 その甚内は間もなく病死した。村の人は甚内は狸を揉み出していたから、狸に敵を討たれて死んだと云った。――これは私が少年の時に聞いた話である。

 私の郷里には、またこう云う話もある。それは、某と云う男があって、ある夜、路を帰っていると、一疋の狸が木の葉を採って体に貼っているので、某は笑って、
「そんなことをしたってだめじゃ、俺が好く化けることを知ってるから教えてやろう」
 と云うと、狸は翌晩になって、その男と約束の処へ来た。その男は用意していた袋を出して、
「この内へ入ったら、思うものになれる」
 と云った。狸がほんとにして入ると、その男は袋の口をぐいとしめて、突然地べたに投げつけて殺した。

 腕自慢の若侍があった。彼は奇怪な狸の噂を聞いて、その狸を退治すると云って、ある日一人で山の中へ入って往った。
 と、むこうの方から振袖を着た※[#「※」は「女へん+朱」、248−5]《きれい》な女が来た。若侍は不思議に思った。草刈娘なら兎も角、こうした処へ振袖を着た※[#「※」は「女へん+朱」、読みは「きれい」、248−6]な女が一人で来ると云うのは、頗る奇怪である。まてよ、もしかすると、あれが狸の化けたのかも判らないぞ、と、彼は横眼を使いながら女の方に注意していた。壮《わか》いおどおどした女にも以合わず、荊棘の上も、萱の中もかまわず、ひらひらと歩いて来た。さては、と、彼は思った。
 女は白いあどけない顔に微笑を見せながら寄って来た。若侍も微笑を見せて女の来るのを待っていた。
 女の艶かしい顔が眼の前にあった。若侍は抜く手も見せず、腰の刀を抜いて斬りつけた。女は声を立てずに倒れたが、それはまぎれもない女の死骸であった。若侍は周章《あわ》てだした。狸ではなしに人であったら、恐れに眼が暗んで人と狸とまちがえたと云って世間から笑われる、もしそうであったら、とても生きてはいられない、と、彼は女の死骸を見つめていた。
 三人|伴《づれ》の侍女《こしもと》らしい女が走って来た。若侍は当惑した。侍女らしい女は若侍の傍へ来た。
「もしや此処を、お姫様がお通りになりはしまいか」
 と、一人が云った。若侍はさては己《じぶん》の殺したのはお姫様であったか、しまったことをしたと思って、全身の血が一時に氷結したように思った。
「や、これは、お姫様、何者がこんな姿に……」
 と、一人の侍女は倒れるように死骸に執り縋った。他の侍女も泣き叫んで死骸に執り縋った。
 若侍は茫然として立っていた。侍女の一人は若侍の血刀を持った手をぐっと掴んだ。
「この悪人、そちは何の怨みあって、お姫様をこうした眼に逢わせたのじゃ」
 若侍は血刀を手から落した。と、跫音がして山狩姿をした武士が、五六人の侍者を従えて来た。
「や、殿様のおでましじゃ」
 若侍の隻手を掴んでいた侍女の一人が云った。山狩姿の武士は侍女の声を聞きつけると、その方へ寄って来た。それは国主であった。
「何事じゃ」と、国主は声をかけた。
「この者が、お姫様を手にかけましてござります」
「なに、姫を手にかけた」
 と、云って死骸を見るなり、その眼を怒らした。若侍は腰を抜かしたように坐って、顔を土にすりつけた。
「にくい奴、何故あって姫を手にかけた」
「恐れ入りました」
「何故あって姫を手にかけたのじゃ、早く云え」
 と、国主は涙声になっている。
「諸人の害をなす狸を退治いたそうと思いまして」
「たわけ者、狸と姫と区別ができないか、武士の風上にも置けない奴、せいばいして姫の仇を執ってやる」
 国主は徒者の一人に持たしてある刀を執って、それをすらりと抜いた。若
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