た」
 と、よりの女が怪しい声で苦しそうに云う。祈祷者にはすぐ見当がついた。それが判らない時には、
「近処とは何処じゃ、云うて見よ」
 と云うと、
「安右衛門からじゃ」
 などと、犬神持ちとせられている家の名を云う。強情なのは何処から来たとも、犬神とも何とも云わないことがある。すると祈祷者が嚇した。
「云わないと金縛りにするぞ」
「祈り殺すぞ」
 と、云うようなことを云うと白状した。時とすると犬神と思っていたのが、狸であったり、死霊であったりした。
「何しに来た」
 と、病人に憑いた原因を聞くと、食物が欲しかったとか、某物《あるもの》が羨ましかったとか、門口を通っていたら其処の犬に吠えられたから、恨みも何もなかったけれども憑いたとか、種々のことを云った。
「それなら、早う帰れ」
 と、祈祷者が命令すると、
「帰ります、帰ります」
 と、云って幣を動かしていたよりの女が、急に体を動かして背後《うしろ》に倒れる。と、女はけろりとして起きあがる。彼女はもう普通の女になっていた。時とするとその女は、門口ヘまで這って往って倒れることがあった。
「帰らない、怨みがあるからとり殺す」
 などと云う者もあった。中には、
「握り飯をこしらえて、俺の家の門口まで持って往ってくれるなら、帰る」
 と、だだをこねる者もあった。病人の家ではそのとおりにした。漬物が欲しいと云えば漬物を持って往った。貰った方では知らないから感謝しているが、贈った方は舌を出した。で、私の村では、思いもうけない処から物をもらうと、
「家の犬神が云やしなかったろうか」
 などと云って笑った。今はそんなことを云う者もなくなったが、最近まで犬神持ちの家とは結婚しなかった。
「彼処《あすこ》の姨《おば》さんの眼を見ろ、光っているじゃないか」
 犬神持ちの家の人は、違った光る眼を持っていると云われていた。私の知っている老婆は、神経的な光のある眼をしていた。

 私の郷里は土佐の海岸であった。今はどうか知らないが、私の郷里には好く流行《はやり》神様と云うものが出来た。昨日まで何もなかった野原や畑の間に、急に小さな祠が出来て、それに参詣する者が赤や白の小さな幟をあげた。
「彼処の流行神様は、躄《いざり》が歩きだした」
「盲目の遍路の目が見えだした」
 などと流行神様の噂が村の人の口から口に伝えられる。その流行神様の本尊は、古い名も知れない石塔であったり石地蔵であったり、狸であったりしたが、中でも多いのは狸であった。
「あれは、其《ある》処の狸じゃ」
 村の人はその狸の名まで知っていた。狸が流行神様になるには、村の人に度たび憑いたあげく、
「俺を神として祭れば、もう人に憑かない」
 などと云いだして、それで祭るようになるのであった。
 何時の比《ころ》であったか、私の村に甚内と云う力士があったが、その甚内は狸に憑かれる人があると、その人の背から肩を揉んで、狸を追いだした。これには狸も困ったであろう。ある夜、甚内が林の下を通っていると、一疋の狸が出て来て、
「甚内さん、甚内さん」
 と呼んだ。甚内は巫山戯《ふざけ》たことをする奴じゃ、一つ捕って汁にでも焚いてやろうと思って立ち停った。
「甚内さんにゃかなわんから、一つもうけさして仲なおりをしたいが、やってみませんか」
「何をやる」
「私の仲間が城下の浅井(富豪)のお嬢さんに憑いておるから、二人で紀州の花岡(名医)に化けて往って、仲間に退かしたら、うんと礼をくれるから、それをお前さんにあげます」
「何時往く」
「これから往こう、私に跟いてくるなら、すぐ往ける」
 村から城下の町へは、陸路で往っても三里しかなかった。
「どうして往く」
 と、甚内が聞くと、
「ちょっと待っておくれ、準備《したく》をする」
 狸は傍の木の葉を五六枚とって、それを口で舐めて体に貼ったが、見る見るそれが衣服《きもの》になった。そして、木の根に這いまつわっている葛を引きちぎって胴に巻くと、それが帯になった。甚内は、狸が人に化けるには、木の葉を舐めて貼ると聞いているが、なるほどそうだなと感心して見ていると、狸はもう立派な医師《いしゃ》になって、薬籠さえかまえていた。
「この薬籠をお前さんが持って往くが好い、お前さんは私の弟子のつもりでおるが好い」
 と、薬籠をさしだすので、甚内はそれを受けとって肩にした。
「では往こう」
 と云って、狸の医師はずんずんと歩いて往く。甚内もその後から跟いて往った。そして、暗い中を暫く往ったかと思うと、もう城下町の家並が灯の中に浮き出て来た。
「や、もう城下へ来たな」
 甚内はその早いのに驚いていると、眼の前に大きな門が見えて、狸の医師はその中へ入って往った。甚内も続いて入って往くと、すぐ大きな玄関になった。玄関にはもう五六人の者が灯を持って出迎
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