古い煤けた棚には何も見えなかつた。
「判つた、よし、好い、まア、下へお出で、お前さんに話がある、」
 それは頬から頤にかけて胡麻塩髯の見える労働者のやうな男であつた。哲郎は意味が判らなかつたが、腑に落ちないことだらけであるから、とにかく精しいことを聞かうと思つて、傍にあるインバを持ち、先になつておりて往く二人の後から随いて往つた。
 胡麻塩の男は其処の亭主で、一人は隣家の男であつた。亭主は火のない長火鉢の傍で小さな声でいつた。
「五六年前に、バーの女給をしてゐた女が、なんでも男のことかなんかで、あすこで死んださうですよ、私達は一昨年移つて来て何も見ないが、へんなことがあるといつて、貸す人も貸す人も三月とはゐないんですよ。」



底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
   2003(平成15)年10月22日初版発行
初出:「黒雨集」大阪毎日新聞社
   1923(大正12)年10月25日
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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