といふ女の肥つた肉体もその中に交つてゐた。それ等の女の肉体は電車の動くたびに動くやうな気がした。
 客のすくない電車の中は、放縦なとりとめもないことを考へるには都合がよかつた。彼の頭の中には細つそりした小女の手首の色も浮んで来た。
「……黒門町、」
 哲郎は夢から覚めたやうに眼を開けて先づ自分といふ物に注意してから、今度は車の前の方へ眼をやつた。さうして彼は次に来る広小路を乗りすごさないやうにと思つた。
 ちよと車体に動揺を感じて、それがなくなつたところですぐ停つてしまつた。電車はもう広小路へ来てゐた。哲郎はすぐ起つておりた。他にも二人の客がその後からおりて来たが、物の影の走るやうに彼の傍を通り抜けて電車の前を横切り、大塚早稲田方面の電車の停まる呉服店の角の方へと走つて往つた。
 哲郎は薄暗い中に立つてゐた。風のない空気の緩んだ街頭はひつそりとして、物音といつては今彼を乗せて来た電車が交叉点を越へて上野の方へと走つてゐる音だけであるが、それさへ夢の国から来る物音のやうに耳には響かなかつた。四辻の向ふ角になつたカフエーのガラス戸が開いて、二三人の人影が中からによこによこと出て来たが其処にもなんの物音もしなかつた。哲郎はその物音のしないのが物足りなかつたが、しかし広小路へ来たといふ満足が彼の気持ちを傷つけなかつた。彼はとにかく向ふへ往かうと思つて、カフエーの方へと歩いた。
 厩橋の方から来たらしい電車がやはりなんの音もさせないでやつて来るのが見えた。哲郎はゆつくりとレールの上を踏んで歩いた。と、後から来て彼の左側をすれすれに通つて向ふへ往かうとする者があつた。それは若い小柄な女であつた。女は振り返るやうにちよと白い顔を見せた。女は長い襟巻をしてゐた。
 彼はすぐこの女はどうした女であらうと思つた。かうして十二時を過ぎてゐるのに一人で歩いてゐるところを見ると、決して正しい生活の女でないと思つた。さう思ふとともに彼は探してゐた物をあてたやうな気がした。
「もし、もし、」
 彼は何か女にいつてみやうと思つた。と、女はまた白い顔をちらと見せた。
「路が判らなくて困つてるんですが、」
 女の口元が笑ふやうになつて見えた。彼は安心して女の方へ寄らうとした。と、女の体はひらひらと蝶の飛ぶやうに向うへと往つて、もうカフエーの前を越えてゐた。彼は失望した。失望するとともに彼の女はある種の女でないと思つた。
 向ふから鳥打を冠りインバを着た男がやつて来た。哲郎はこの男は刑事かなにかではないかと思つた。彼はさうして今女に話しかけやうとしたことを思ひ出して、もしあんな時に追つかけでもしてゐやうものなら、ひどい目に逢はされたかも判らないと思つた。彼はすこし気が咎めたが、しかし向ふの方に幸福が待つてゐるやうな気がするので、引つかへさうとする気もしなければ、其処のカフエーへ入らうとする気も起らなかつた。
 夜店の後の街路には蜜柑の皮やバナナの皮が散らばつてゐた。哲郎は其処を歩きながら今の女は何処へ往つたらうと思つて、向ふの方を見た。向ふには薄暗い闇があるばかりで人影は見えなかつた。彼は女は何処かこのあたりの者であらうと思つた。
 哲郎は戸の閉つた薔麦屋の[#「薔麦屋の」はママ]前へ来てゐた。微に優しい声で笑ふのが聞えた。彼はその方へと顔をやつた。若い女が電柱に身を隠すやうにして笑つてゐた。それは長い襟巻で口元を覆ふやうにした彼の女であつた。
「あ、」
 哲郎はもう何も考へる必要はなかつた。彼は女の傍へと往つた。
「私は電車に乗つて帰るのが惜いやうな気がするもんだから、かうしてぶらぶらと歩いてるんです、どうです、一緒に散歩しませんか、すこし遅いことは遅いが、」
 女は電柱を離れて寄つて来た。黒い眼と地蔵眉になつた眉とがきれいであつた。
「あなたは、どちらです、遠いんですか、」
「近いんですよ、」
「どうです、散歩しませんか、どつか暖い物をたべる家でも好いんですが、」
「さうね、でも、もう遅いから、私の家へまゐりませう、」
「往つても好い、構はないんですか、」
「私、一人ですから好いんですよ、」
「下宿でもしてゐるんですか、」
「間借をしてゐるんですよ、二階の、屋根裏の穢い所よ、」
「結構ですな、」
 もう女は歩きだした。哲郎は何かたべ物でも買つて往きたいと思ひだしたが、さて何を買つて好いやら、この夜更けに何があるものやらちよと思ひだせなかつた。
「何か買つて往きませうか、たべる物でも、」
 女は顔を此方に向けた。
「もう何も売つてやしませんわ、好いでせう、家へ往きや何かつまらん物がありますから、」
「さうですか、」
 哲郎は怪しい女の生活を思ひ出してキユーラソー位はあるだらうと思つた。彼はもう何もいはずに女に随いて歩いた。
 女は其処の横町を左へ曲つた。向ふから
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