青い紐
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)薔麦屋の[#「薔麦屋の」はママ]
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桃山哲郎は銀座尾張町の角になつたカフエーでウイスキーを飲んでゐた。彼は有楽町の汽車の線路に沿うたちよつとしたカフエーでやつた仲間の会合で足りなかつた酔を充たしてゐるところであつた。
もう客足が斑になつて其処にはすぐ前のストーブの傍のテーブルに一組三人の客がゐるばかりであたりがひつそりとして、その店に特有な華かな空気がなくなつてゐた。哲郎はその静かな何者にもさまたげられない環境に心をのびのびとさして、夢のやうな心持で宵に聞いた女の話を浮べてゐた。
それは放胆な露骨な話であつた。旧派の俳人の子で文学志望者の若い男のした話は、某婦人が奇怪な牛乳を用ひたために妊娠したといふ話であつた。その晩入会した美術家の一人が入会の挨拶に代へてした話は、その春歿くなつたといふ仲間の美術家の話であつた。その仲間といふのは、洋画家で可成の天才で、絵の評判も好く、容貌も悪い方でなかつたが、細君になる女が見付からなかつた。その見付からないにはすこし訳があつた。しかしそれは、ごく親い兄弟のやうにしてゐる友人でなければ判らないことであつた。こんなことで洋画家の細君を見付けてやらうとした友人達も、ちよつと手にあましてゐたところで、その内に大阪の方で女学校を卒業した女があつて、それが洋画家の足りないところを充たすことが出来さうだといふことになつた。で、骨を折つて結婚さしてみると、その目きゝはすこしも違はないで、傍の者を羨ますやうな仲の好い夫婦が出来た。美術家はその話の中に
(それこそ、二人は相逢ふの遅きを怨むといふほどでしたよ、)といふ形容詞を用ひて皆を笑はした。
哲郎も腹を抱へて笑つたことを思ひだした。美術家はそれから洋画家夫婦にすぐ子供の生れたことを話した。その生れた子供は、毎日のやうに女中の手に抱かれて、正午頃と夕方家の前へ出てゐた。子供はひイひイ泣いてゐる時があつた。通りかかつた知合の者が訊くと、
(奥さんは、今、旦那さまとお書斎でお話をしてをりましてね、)
などゝいつた。はじめにゐた一度結婚したことのある女中は、何故かすぐ逃げだしてしまつたといふことも思ひだした。彼の考へは頻に放縦な女の話へと往つた。彼は中学生相手の雑誌を編輯してゐる文学者の話した、某劇場の前にゐた二人の露西亜女の所へ往つて、葡萄酒を沢山飲まされて帰つて来たといふ話を思ひだした。と、発育しきつた外国婦人の肉体が白くほんのりと彼の眼の前に浮ぶやうに感じた。
(銀座の某店の前で、ステツキを売つてゐる婆さんに、ステツキを買ふふりをして訊くと、女を世話してくれる、)
何時も話題を多く持つてゐる若い新聞記者の話したことが浮んで来た。そこで彼は、そのステツキを売つてゐるといふ老婆に興味を感じて、某処に頭をやつたとこで、時間のことが気になつて来た。彼はカツプに手をやつたなりに顔をあげた。
時計は十二時に十五分しかなかつた。彼は自分の物足りなさを充たしてくれる物は、上野の広小路あたりにあるやうな気がした。彼はすぐ広小路まで帰らうと思つた。さう思ふとゝもに、彼の頭の一方に雨の日の上野駅の印象が浮んだ。その印象の中には赤い柿の実が交つてゐた。彼はその印象をちらちらさしながら勘定のことを考へた。
「おい、勘定、」
カツプにすこし残つてゐたソーダ水を割つたウイスキーを口にしながら上野駅の印象の続きを浮べてみた。雨に暮れかけた上野駅では東北の温水町から一緒に帰つて来た六七人の者がばらばらになつて帰りかけた時、随筆家として世間に知られてゐる親い友人から呼び止められた。随筆家の友人は、土産にと持つて来た柿の籠を一緒に持つて往つて置いてくれといつた。
(おい、けしからんことをいふなよ、)
といつて笑つたことを思ひだした。随筆家の友人と話題を多く持つてゐる若い新聞記者とは、糠雨のちらちら降る中を外の方へと歩いていつた姿も浮んで来た。その二人は前晩泊つた温泉町から電報を打つて停車場もよりの家へ某事を頼んであるので、その家へ往つて夜を明かし、自分の家へは翌朝の汽車で帰つたやうな顔をして帰るといふことになつてゐた。彼は二人を見送つてから車を雇ひ、随筆家の友人の柿も一緒に積んで大塚の家へ帰つたことを思ひ出した。
其処へ十八九に見える姿の好い女給が勘定書を持つて来た。彼はインバの衣兜から蟇口を出してその金を払ふとゝもにすぐ腰をあげた。
哲郎は電車に揺られてうつとりとなりながら女のことを考へてゐた。その女の中には彼の洋画家の細君であるといふ女の、想像になつた長い骨を青白くゝるんだ肉体も浮んでゐた。
一二年前に横浜の怪しい家で知つた獨逸人の混血児
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