待合の帰りらしい二人の若い男が来たが、その二人の眼は哲郎の方へぢろぢろと注がれた。彼はきまりがわるかつた。
「此方よ、」
女の小さな声がした。女は狭い狭い路次を入つた。哲郎は暗い所で転ばないやうにと足許に注意しいしい往つた。左の方はトタン塀になつて、右側に二階建の長屋らしい家の入口が二つ三つ見えた。
「黙つてついてゐらつしやい、」
女は其処の入口の雨戸をそうと開けそれから格子戸を開けて入つた。哲郎も続いて入つたが、下の人に知れないやうにと咳もしなかつた。
あがり口の右側に二階の梯子段が薄らと見えてゐた。哲郎は女に押あげられるやうにされてあがつて往つた。
上には青白い灯の点いた六畳の室があつた。室の中には瀬戸物の火鉢があつて、それを中に二枚の蒲団が敷いてあつた。向ふの左隅には小さな机があつて、その上に秋海棠のやうな薄紅い草花の咲いた鉢を乗せてあるのが見えた。
「穢い所よ、」
女は後の障子を締めて入つて来た。哲郎は立つてインバのボタンをはづしてゐた。
「お座りなさいましよ、」
女は襟巻を机の上へ乗せて、その方を背にして一方の蒲団の上に坐つた。哲郎もインバを足許へ置いてから、女と向き合ふやうにその青い地に何か魚の絵を置いたメリンスの蒲団の上に坐つた。
二人の手と手は火鉢の上で絡みあつた。
哲郎は女の顔を見るのがまぶしかつた。
「どうです、」
哲郎は笑つた。彼はそれ以外にいふ詞がなかつた。
女も笑つてゐた。女の眼は絡みあつてゐる哲郎の手元へと来た。
「暖いわ、ね、」
「会があつて今まで飲んでたから、暖かいでせう、」
「お酒をおあがりになつて、」
「すこし飲むんです、」
「ぢや、お酒をあげませうか、」
「ありますか、」
哲郎は形式だけでも酒があると話がしよいと思つた。
「すこしありますよ、私はいたゞかないから、貰つたのをそのまゝにしてありますよ、」
女は顔をあげて右の鴨居の方を見た。其処には小さな棚があつて、ボール箱もあれば木箱も見えてゐた。
「味はどうですか、草の色をした酒ですよ、」
女はさういつて起たうとするので、哲郎は絡んでゐた指を解いた。と、女は起つて棚の黄ろなボール箱に手をやらうとしたが達かなかつた。
「取らう、飲む者が取りませう、」
哲郎は起つて女と並んだ時、爪立ちを止めた女の体がもつたりと凭れて来た。哲郎はその女の体を支へながらボール箱に手をやつた。と、今まで気が注かなかつた天井から垂れてゐる青いワナになつた紐がちらと眼に注くとゝもに、それがふはりと首に纏はつた。彼は左の手でそれを払のけやうとしたところで、凭れかゝつて来た女の体に石のやうな力が加はつて、彼の体を崩してしまつた。彼は唸り声を立てた。
哲郎が意識を回復した時には、薄暗い枕頭に二人の男が立つてゐた。
「お前さんは何んだね、此処へ何しに来たんだね、」
哲郎は女に連れられて下の人に知らさずにそつと来てゐることに気が注いた。彼はかうなれば女に弁解して貰ふより他に手段がないと思つた。彼は起きて四辺を見たが女の姿は見えなかつた。
「此処にゐる女の方と一緒に来たんですが、何処へ往つたんでせうか、」
「此処にゐるつて、此処には何人もゐないが、何人にも貸してないから、」
「おかしいな、私は其処の蕎麦屋の前で一緒になつて、やつて来て、棚に酒があるといつて、女が取らうとしたが棚が高くて取れないから、私が取つてやらうとすると、女が凭れかゝつて来る拍子に、其処の天井からさがつてる青い紐が首へかゝつて、それつきり知らなくなつたんですが、」
哲郎は棚の方を見た。紐もなければ古い煤けた棚には何も見えなかつた。
「判つた、よし、好い、まア、下へお出で、お前さんに話がある、」
それは頬から頤にかけて胡麻塩髯の見える労働者のやうな男であつた。哲郎は意味が判らなかつたが、腑に落ちないことだらけであるから、とにかく精しいことを聞かうと思つて、傍にあるインバを持ち、先になつておりて往く二人の後から随いて往つた。
胡麻塩の男は其処の亭主で、一人は隣家の男であつた。亭主は火のない長火鉢の傍で小さな声でいつた。
「五六年前に、バーの女給をしてゐた女が、なんでも男のことかなんかで、あすこで死んださうですよ、私達は一昨年移つて来て何も見ないが、へんなことがあるといつて、貸す人も貸す人も三月とはゐないんですよ。」
底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日初版発行
初出:「黒雨集」大阪毎日新聞社
1923(大正12)年10月25日
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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