それよりも苦しいのは、いれつくような空腹のくるしさであった。陳は恐れと餓えで生きた心地がしなかった。間もなく女は燈を持って入ってきたが、その後ろから壷を提げて従いてきた婢《じょちゅう》は、酒と食物を出して陳に喫わした。陳はせきこんで訊いた。
「どうなったでしょう、赦していただけませんか」
女は言った。
「さっきすきを見て、庭にいる秀才をどういたしましょう、恕《ゆる》しておやり遊ばすなら帰してやりましょう、そうしないと餓えて死にますと申しあげたら、公主はじっとお考えになって、夜になって何所へも往かす所はないではないかとおっしゃって、とうとう私に食物を持って往ってやれというお言葉がありました、これは悪いしらせではありません」
陳と従僕はやっと食事をすることができた。しかし、陳はまだ心配でたまらないので終夜眠らないでさまよい歩いた。朝になって辰の刻がすぎようとしたところで、かの女がまた食物を持ってきてくれた。陳は言った。
「公主様のお気にさわらないようにして、ねがってください」
女は言った。
「公主は殺せともおおせられないが、また赦せともおおせられないです、私達しもじもの者は、何度も何度も申しあげることはできないです」
そのうちに陽が西にまわった。陳は赦されるのを待ちかねていた。と、たちまちかの女が息せわしくはしってきて言った。
「大変です、おしゃべりさんが、王妃に申しあげたものだから、王妃は巾をなげつけて、気ちがいの下人とお怒りになっておられます、もうどうすることもできないです」
陳は大いに驚いた。顔の色は灰のようになってひざまずいてどうしたなら罪を免れることができるだろうかと言って教えを請うた。と、たちまち人声ががやがやとして聞えてきた。女は手をふってそっと逃げて往った。三四人の者が索を持ってさわがしく入ってきた。そのうちの一人がじっと陳を見て言った。
「何人《だれ》かと思ったら陳さんではありませんか」
そこで索を持っている者を止めて、
「まあ、待ってください、王妃に申しあげてまいります」
と言って、引返して走って往ったが、すぐ帰ってきて言った。
「王妃が陳さんのいらっしゃるのをお待ち申しておられます」
陳はわなわな顫えながら従いて往った。たくさんの門をすぎて一つの宮殿へ往った。碧《みどり》の箔《すだれ》を銀の鉤《かぎ》でかけた所に美しい女がいた。それが王妃であった。陳を伴れて往った女は、
「陳さんを召しつれました」
と言った。すると光りかがやく衣裳をつけていた王妃が目をあげた。陳は地べたに額をすりつけて言った。
「私は旅をしておる者でございます、どうか生命をお助けください」
王妃は急いで起ってきて、陳の手を執って上にあげて言った。
「私は、あなたがなかったなら、今日のないものです、婢達は何も知らないから、大事のお客様をお苦しめして、申しわけがありません」
そこで華やかな酒宴の席を設けて、玉をちりばめた杯に酒を酌んで陳をもてなした。陳はその故が解らないので茫然としていた。王妃は言った。
「再生の御恩に対して、他に御恩返しをすることができないのを残念に思いますが、ただ女《むすめ》が詩を書いていただいて、あなたに可愛がっていただきましたから、天縁であろうと思います、今晩、あなたのお傍にさしあげることにいたします」
陳は思いもよらない、そして、意味の解らない幸福にぶっつかって、心がうっとりして落ちつかなかった。
日がはや暮れてしまった。一人の侍女が来て言った。
「公主はもうお準備《したく》ができました」
侍女は陳を案内して式場へ往った。と、たちまち笙や笛の音がにぎやかに聞えだした。階上には一めんに花毛氈《はなもうせん》を敷いて、室の中も門口も、垣根も便所も、皆燈籠を点《つ》けてあった。三四十人の麗しい女が公主を扶けて入ってきてかわるがわる拝《おじぎ》をした。麝香《じゃこう》の気が殿上から殿外に溢れた。
そこで陳と公主は手を引きあって幃《しんしつ》に入った。陳は言った。
「私は旅の者で、まだ一度もお目みえしたこともないうえに、大切な巾を汚して、罪をのがれることができたなら幸いだと思っていたのです、結婚を許していただくとは思いもよらないことです」
公主が言った。
「私の母は、湖君《こくん》の王妃でございます、すなわち江陽王《こうようおう》の女でございます。昨年里がえりをする途で、湖の上で游んでいて、流矢に中《あた》って、あなたによって脱れることができました、そのうえに金創の薬までいただきました、一門は皆あなたの御恩を感謝しております、どうか人間でないということで疑わないようにしてくださいまし、私は龍君に従うて長生の術を授けられております、あなたと生涯を共にしましょう」
陳はそこで公主も王妃も神人であるとい
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