そこに鞦韆《ぶらんこ》の架《たな》があったが、それは雲と同じ高さのもので、その索《なわ》はひっそりと垂れていた。陳はそこで此所《ここ》は閨閣《おおおく》に近い所ではないかと思った。陳はおそろしくなったので前《さき》へ往かなかった。
不意に馬の跫音が門の方に聞えてきた。女の笑声も微かに聞えてきた。陳は従僕とそっと花苑の中へ隠れた。間もなく女の笑声がだんだん近づいてきた。その時一人の女の声が言った。
「今日の猟は面白くなかった、鳥が獲れなかったから」
するとまた一人の女の声が言った。
「公主が雁をお獲りあそばさなかったなら、何も獲れないで、馬を労するだけでしたが」
間もなく紅い装束した数人の女が一人の女郎《むすめ》に従《つ》いてきて、亭に入って腰をかけた。女郎は短い袖の軍《いくさ》装束《しょうぞく》で年は十四五であろう、おさげにした髪は霧のかかったようで、細そりした腰は風にもたえないように見えた。それは花でもくらべものにならない美しさであった。傍の女達は茶をくみ香を焚いたが、遠くから見ると錦をつかみかさねたように輝いて見えた。暫くして女郎は起って階段をおりて往った。一人の女が言った。
「公主はお馬でお疲れになっておりますのに、それでも鞦韆をあそばされますか」
女郎は笑って頷いた。とうとう侍女達はその公主を肩に乗せ、臂を捉《と》り、裾を※[#「寨」の「木」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]《から》げ、履《くつ》を持って鞦韆の上に乗せた。公主は白い腕を舒《の》べ、端《さき》の尖った※[#「尸+徙」、第4水準2−8−18]《くつ》をはいて、軽く燕の飛ぶように空を蹴って、雲の上まで身《からだ》を飛ばしていたが、間もなくやめて侍女達に扶《たす》けられて下におりた。侍女達は口ぐちに言った。
「公主は真《ほんとう》の仙人でございます」
そして皆で※[#「口+喜」、第3水準1−15−18]々《きき》と笑いながら往ってしまった。陳は花苑の中から女達の方を見ているうちに、魂がぬけでたようになっていたが、そのうちに人声がもうしなくなったので、這い出して鞦韆の架の下へ往き、そのあたりを歩きながら女のことを考えていた。籬《かき》の下に紅い巾《てふき》の落ちているのが見えた。陳は女の何人《だれ》かが落して往ったのだろうと思って、喜んで袖の中に入れて、亭の中へあがって往った。そこには案《つくえ》の上に硯や筆が備えてあった。陳はとうとうその巾に詩を題した。
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雅戯《がき》何人《なんびと》か半仙に擬する
分明なり瓊女《けいじょ》金蓮を散ず
広寒隊裏《こうかんたいり》応《まさ》に相《あい》※[#「女+戸の旧字」、第3水準1−15−76]《ねた》むべし
信ずるなかれ凌波《りょうは》便《すなわ》ち天に上るを
[#ここで字下げ終わり]
詩ができると陳はそれを口にしながら出て、はじめの径《みち》から引返して往った。門の扉はもうぴったりと締っていた。陳はこまってしまった。そこで建物から建物を探して出口を見つけようとしたが見つからなかった。一人の女が不意に入ってきたが、びっくりして訊いた。
「どうして此所へいらしたのです」
陳は礼をして言った。
「路を間違えてまいりました、どうか助けてください」
女は訊いた。
「紅い巾を拾わないでしょうか」
陳は、
「拾いました、それに、それをよごしました」
と言って、巾を出した。女はそれを受け取ってひどく驚いて言った。
「それは大変です、これは公主のお持ちになるものです、これをこんなにいたずらしては大変です」
陳は色を失った。
「どうしたら赦《ゆる》していただけましょう」
女は言った。
「宮殿の中へ忍びこんだ罪ばかりでものがれることができないですが、あなたは儒冠《じゅかん》の書生さんで、おとなしい方だから、そればかりなら、どうにかしてお助けすることができたのですが、わざわざこんないたずらをしては、どうすることもできないです」
女は巾を持ってあたふたと往ってしまった。陳は心がふるえて肌に粟ができた。彼は自分の体に翅《つばさ》のないことを恨んだ。彼は殺されるのを待つより他にしかたがなかった。
やや暫くして初めの女がまた来て、そっと言った。
「お喜びなさい、あなたは命が助かるかも解らないです、公主は巾を三遍も四遍もくりかえして御覧になって、お笑い遊ばされて、べつにお怒りになった御容子《ごようす》も見えないですから、ついすると赦していただくことができますよ、すこし辛抱しているがいいのです、逃げ出したりなんかしてはいけないです、それで見つかろうものなら今度は赦してもらうことができないですから」
日がもう入りかけていた。陳は女の往った後でまだ凶とも吉とも定まらない自分の運命を考えて苦しんだが、
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