西湖主
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)陳弼教《ちんひつきょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)副将軍|賈綰《こかん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「糸+悄のつくり」、第3水準1−90−6]《しょう》
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陳弼教《ちんひつきょう》は幼な名を明允《めいいん》といっていた。燕《えん》の人であった。家が貧乏であったから、副将軍|賈綰《こかん》の秘書になっていた。ある時賈に従って洞庭に舟がかりをしていると、たまたま大きな猪婆龍《ちょばりゅう》が水の上に浮いた。賈はそれを見て弓で射た。矢はその背に中《あた》った。他に小さな魚がいて龍のしっ尾を銜《ふく》んで逃げなかった。そこで龍とその魚を獲って、じょうをおろして帆柱の間に置いてあったが、二つとも微《かす》かに息があった。そして龍は吻《くち》を開けたり閉じたりしてたすけを求めているようであった。陳は気の毒になって賈に請うて逃がしてやることにしたが、金創の薬を持っていたから、じょうだん半分にそれをつけて、水の中へ放してやった。龍と魚は長い間浮いていてそして沈んで往った。
後一年あまりして陳は北へ帰ったが、また洞庭を通ったところで、大風が吹いて乗っている舟が覆ってしまった。陳は幸いにして竹の箱があったので、それにすがって一晩中流れていて、木にかかって止った。そこで岸へ這いあがっていると一つの尸《しがい》が流れてきた。それは自分の伴《つ》れていた従僕《げなん》の少年の屍《しかばね》であった。陳は力を出して引きあげたが、もう死んでいた。
陳は疲労と悲しみで生きた心地もしなかった。彼は従僕の屍を前にして吐息していた。そこには樹木の茂った小山があり、小さな柳の枝が風のたびに緑の色をうごかすばかりであった。人通りがないので途を聞くこともできなかった。夜の明け方から辰の刻すぎまで坐っていたところで、不意に従僕の体が動きだした。陳は喜んでそれを撫でた。間もなく従僕はたくさん水を吐いて、夢の醒めたように蘇生した。そこで二人は濡れていた着物を脱いで石の上に乾したが、午近くなってやっと燥《かわ》いた。二人はやがてそれを着たが、昨日から何も喫《く》っていないので、腹がごろごろ鳴ってひもじくてこらえられなかった。
そこで二人は人家のある方へ往こうと思って、急いで山を越えて往った。山の半《なか》ばまで往ったところで、矢の音がした。陳は足を止めて耳をすました。と、馬の跫音がして二人の女郎《むすめ》が駿馬に乗って駈けてきた。二人とも紅い※[#「糸+悄のつくり」、第3水準1−90−6]《しょう》の鉢巻をして、髻《もとどり》に雉《きじ》の尾を挿し、紫の小袖を着、腰に緑の錦を束ね、一方の手に弾《はじきゆみ》を持ち、一方の手に青い臂《ひじ》かけをしていた。その二人が嶺の南を駈けて往くと、二三十騎の者が後から続いた。林の中に猟をしていた一行であろう、皆美しい女ばかりで装束もおんなじであった。
陳は大事をとって動かなかった。騎馬の後から男の駈けてくるのが見えた。それは馭卒《ぎょそつ》のようであった。陳はその馭卒の方へ往って、
「今、通ったのは何方《どなた》です」
と訊いてみた。馭卒は言った。
「あれは西湖の王様じゃ、首山《しゅざん》に猟をなされておるところじゃ」
陳は自分がそこへ来た故《わけ》を知らして、そのうえ飢えていることを話した。馭卒は裏糧《べんとう》を解いて食物を分けてくれて、そして注意した。
「遠くの方へさけなくちゃいけない、車駕《しゃが》を犯すと死刑になるからな」
陳は懼《おそ》れて従僕を伴れて山を走りおりた。山の麓の林の中に宮殿のような建物がちらと見えた。陳は寺だと思ったので、その方へ歩いて往った。周囲に白亜の垣をめぐらした建物で、渓《たに》の水が流れ、朱塗の門が半ば啓《あ》いて、それには石橋が通じていた。門の扉にのぼって中を窺いた。それは大小の建物が雲に聳えて王宮の庭のようであった。陳はそこでまたこれは貴族の庭ではなかろうかと思った。
陳はためらいためらい入って往った。花の咲いた藤が一面に這うて、花の香がむっと匂うてきた。曲欄《きょくらん》を幾まがりか折れて往くとまた別の庭があって、枝を垂れた数十株の楊柳が高だかと朱の簷《のき》を撫でていた。そして名も知れぬ山鳥が一鳴きすると花片《はなびら》が一斉に散った。奥深い花苑には微かに風が渡って、楡《にれ》の実がひとりでに落ちた。それは目を悦《よろこ》ばし心を愉快にするところで、どうしても人間の世にある庭ではなかった。
陳はその庭を通って小さな亭《ちん》の傍《そば》へ往った。
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