成仙
蒲松齢
田中貢太郎訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)文登《ぶんとう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|遇《あ》った
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「敞/毛」、第3水準1−86−46]《しょう》
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文登《ぶんとう》の周生《しゅうせい》は成《せい》生と少い時から学問を共にしたので、ちょうど後漢の公沙穆《こうさぼく》と呉祐《ごゆう》とが米を搗《つ》く所で知己《ちき》になって、後世から杵臼《ききゅう》の交《こう》といわれたような親しい仲であったが、成は貧乏であったから、しょっちゅう周のせわになっていた。そのうえ歯《とし》も周がうえであったから、成は周の細君を嫂《ねえ》さんと呼んで尊敬し、季節季節にはかならず来て一家の人のようにしていた。そうしているうちに周の細君がお産をした後で暴《にわか》に死んでしまったので、周はその継《あと》へ王姓の女を聘《めと》った。成はすこしささわりがあって来なかったので、王氏にはまだ逢っていなかった。
ある日王氏の弟が姉をみまいに来たので、周は居間で酒盛をしていた。そこへ成が遊びに来たので家の者がとりついだ。周は喜んで迎えようとしたが、礼儀の正しい成は居間へ通るのは失礼にあたるからといって入らずに帰っていった。周は席を表座敷へ移して、成を追っかけていって伴《つ》れ還《かえ》り、やがて席についたところで、人が来て、
「今、別荘の下男が村役人につかまって、ひどく打たれております。」
といった。それは黄《こう》という吏部《りぶ》の官にいる者の牛飼《うしかい》が、牛を曳《ひ》いて周の家の田の中を通ったのがもとで、周の家の下男といいあらそいになり、それを走っていって主人に告げたので、主人の黄《こう》吏部は周の家の下男を捉《とら》えて村役人に送った。それがために周の家の下男が打たれて責められることになったのであった。周はその故《わけ》を聞いて大いに怒った。
「黄の牧猪奴《ぶたかいめ》、よくもそんなことをしやがった。おやじは俺のお祖父《じい》さんにつかえていたくせに。すこしよくなったと思って、人をばかにしやがる。」
周は忿《いかり》がむらむらとこみあげて来て、どうしても押えることができないので、黄吏部の家へいこうとした。成はこれをおしとめていった。
「強いものがちの世の中に、黒も白もないじゃないか。それにさ、今日の官吏は、たいがい強盗で、槍や弓をひねくりまわさない者はないじゃないか。あいてにならないがいいよ。」
周はそれでも聴かずにいこうとした。成はかたく諌《いさ》めてはては涙さえ見せたので、周もよすことはよしたが怒りはどうしても釈《と》けなかった。それがためにその夜は睡《ねむ》らずに寝がえりばかりして朝になった。そこで周は家の者を呼んでいった。
「黄は、俺をばかにしたから仇《かたき》だが、それは姑《しばら》くおいて、村役人は朝廷の官吏で、権勢家の官吏じゃない。もし争う者があるなら双方を調べるべきだ。それを嗾《けしか》けられた狗《いぬ》のように、一方ばかり責めるとは何事だ。俺は牛飼を訴えて、村役人がどういうふうに処分するかを見てやるのだ。」
家の者も主人のいうことが道にかなっているので、止めないばかりか是非いくがよかろうといってすすめた。そこで周の考えはきまった。周は訴状を持って村役人の所へいった。村役人は訴状をひき裂いて投げつけた。周はますます怒って村役人を罵倒《ばとう》した。村役人は慚《は》じると共に恚《いか》って周を捕縛して監獄へ繋《つな》いだ。
周が家を出てから暫《しばら》くして成は周の家へいった。成はそこで周が訴状を持って城内へいったことを知ったので、驚いて止めようと思って城内へかけつけたが、いってみると周はもうすでに獄裏の人となっていた。成は足ずりして悔《くや》んだがどうすることもできなかった。
その時に三人の海賊がつかまっていた。村役人はそれに金をやって周の仲間であるとつくりごとをいわせ、その申立《もうした》てを盾《たて》にして周の着物をはぎとって惨酷に拷問した。成はその時面会に来た。二人は顔を見あわして悲しみ歎いた。二人はそこで相談したが周の無実の罪を明らかにするには天子に直訴《じきそ》するより他に道がなかった。周はいった。
「僕は重い罪をきせられて、こんなに監獄に繋がれ、ちょうど鳥が篭《かご》に入れられたようだし、弟はあっても年が若くて、ただ差入れをする位のことだけしかできないし。」
成はそれを聞くときっとなっていった。
「それは僕の責任だ。僕がやる。むつかしい事件で、それで急を要しない事件なら、友人の必要はない。」
そこで成は都に向って出発した。周の弟が餞別《せんべつ》しようと思っていってみると、成はもう出発してかなり時間が経っていた。
やがて成は都に着いたが控《うったえ》をする手がかりがない。どうしたならいいだろうかと思っていると、天子が御猟《ごりょう》にいかれるという噂が伝わって来た。成は木市《きば》の材木の中に隠れていて、天子の車駕《しゃが》の通り過ぎるのを待ちうけ直訴した。
成の直訴はおとりあげになって、車駕を犯した成自身の身もそれぞれの手続の後にさげられ、上奏を経て周の罪を再審することになったが、その間が十ヵ月あまりもかかったので、周はすでに無実の罪に服して辟《つみ》につけられることになっていた。ところで天子の御批《ぎょひ》がくだったので、法院ではひどく駭《おどろ》いて、ふたたび罪をしらべなおすことになった。黄吏部もそれには駭いて周を殺そうとした。黄吏部は典獄に賄賂《わいろ》をおくって周に飲食をさせないようにした。そこで典獄は周の弟が食物を持って来ても入れることを許さなかった。それがために成が法院へいって周の無実の罪であることをいって、再審を始めてもらったときには、周は飢餓のために起つことができないようになっていた。法院の長官は怒って典獄を打ち殺させようとした。黄吏部は怖《おそ》れて村役人に数千金をおくったので、それでいいかげんなことになり、村役人は法を枉《ま》げた典獄ばかりを流刑にした。そして周は放たれて還《かえ》って来たが、それからはますます成と肝胆《かんたん》を照らした。
成は周の裁判がすんでから、世の中に対して持っていた望みが灰のようにこなごなになったので、周を伴《つ》れて隠遁《いんとん》しようと思って、ある日、それを周にすすめた。周は若い後妻の愛に溺《おぼ》れて、成のいうことを人情に迂《うと》いつまらないことだといって一笑に付した。成はそれ以上何も言わなかったが、その意《こころ》はきちんときまっていた。
成はそれから還っていったが数日経っても姿を見せなかった、周は使を成の家へやった。成の家には成はいずに家の者は周の所にいることとばかり思っていたといった。そこで始めて皆が疑いだしたが、周は成の心の異っていたことを知っているので、人をやって成のいそうな寺や山を偏《あまね》く物色《ぶっしょく》さすと共に、時どき金や帛《きぬ》をその子に恤《めぐ》んでやった。
八、九年してから成が忽然《こつぜん》として周の所へ来た。それは黄な巾《ずきん》を冠《かぶ》り鶴の羽で織った※[#「敞/毛」、第3水準1−86−46]《しょう》を着た、巌壁の聳《そび》えたったような道士姿であった。周は大いに喜んで臂《うで》を把《と》っていった。
「君はどこへいってた。僕はどんなに探したかわからないよ。」
成は笑っていった。
「僕は狐雲野鶴《こうんやかく》だ、どこときまった所はないが、君と別れた後も幸に頑健《がんけん》だったよ。」
周は酒を出して二人で飲みながら別れた後のできごとなどを話し、成に道士の服装を易《か》えさせようとしたが、成は笑うだけでこたえなかった。周はそこでいった。
「馬鹿だなあ。君はなぜ細君《さいくん》や子供を敝《やぶ》れ※[#「尸+徙」、第4水準2−8−18]《くつ》のように棄《す》てたのだ。」
成は笑っていった。
「そうじゃないよ。向うから人を棄てようとしているのだ。こっちから人を棄てやしないよ。」
周は問うた。
「ではどこに棲《す》んでる。」
成は答えた。
「労山《ろうざん》の上清宮だよ。」
そのうちに夜になったので二人は寝台を並べて寝たが、夢に周は成が裸になって自分の胸の上に乗っかったので息ができないようになった。周はふしぎに思って、
「何をするのだ。」
といったが成はわざと返事をしなかった。と、周の眼が寤《さ》めた。そこで周は、
「おい、成君。」
と呼んだが返事がない。周は坐って手さぐりに索《さぐ》ってみたが、どこへいったのか沓《よう》としてわからなかった。暫くしてから周は始めて自分が成の寝台で寝ていることに気がついた。周は駭《おどろ》いていった。
「そんなに酔ってもいなかったのに、なぜこんなに顛倒《てんとう》したのだろう。」
そこで家の者を呼んだ。家の者が来て火を点《つ》けた。周の容貌は変じて成となっていた。周はもと髭《ひげ》が多かった。周は手をやって頷《あご》をなでてみた。そこには幾莖《すうほん》の髭が踈《まば》らに生えているのみであった。周は鏡を取って自分で顔を照してみた。そこには成の顔があって自分の顔はなかった。
「おや、成の顔がある。俺はぜんたいどこへいったのだろう。」
周はあきれて鏡を見ていたが、まもなくこれは成が幻術を以て自分を隠遁《いんとん》させようとしているためだろうと寤《さと》った。そこで気がおちついたので居間へ入ろうと思っていくと、周の弟はその貌《かおかたち》が異っているので通さなかった。周もまた自分で自分を証明することができないので、馬に乗り下男を伴《つ》れて成を尋ねていった。
数日にして周は労山に入った。すると騎《の》っていた馬の足が疾《はや》くなって下男は随《つ》いていくことができなかった。馬は飛ぶようにいってやがて一本の樹の下に止った。そこには黄巾※[#「敞/毛」、第3水準1−86−46]服の道士がたくさん往来していた。そのうちの一道士が周に目をもって来た。そこで周は、
「成道士のいる所はどこでしようか。」
といって問うた。道土は笑っていった。
「成道士から聞いている。上清宮にいるようだよ。」
道士はそう言うなりすぐに離れていった。周はそれを見送った。その道士はすぐその先で向うから来た道士と何か二言三言《ふたことみこと》交えてからいってしまった。初めの道士と言葉を交えていた道士がやっと近くに来た。それは同窓の友の一人であった。同窓の友は周を見て愕《おどろ》いていった。
「数年逢わなかったね。人に聞くと、君は名山に入って道を学んでるといってたが、やっぱり人間《じんかん》にいるのかね。」
周は同窓の友が成とまちがえていることを知ったのでそのわけを話した。同窓の友は驚いていった。
「じゃ、僕が今|遇《あ》ったのだ。僕は君とばっかり思ってた。いってから間がないから、まだ遠くへはいかないだろう。」
周は不思議でたまらなかった。周はいった。
「そうかなあ。じゃ僕も遇っている。自分で自分の面《かお》のわからないはずはないがなあ。」
そこへ下男がおっついて来た。周は馬を飛ばして彼の道士のいった方へといったが影も形も見えなかった。そこは一望寥闊《いちぼうりょうかつ》としたところであった。周は進退に窮してしまった。帰ろうとしても帰る家はなかった。周はとうとう意を決して成をどこまでも追っていくことにしたが、そのあたりは険岨《けんそ》で馬に騎《の》っていくことができないので、馬を下男にわたして帰し、独りになって、うねりくねった山路を越えていった。
遥かに見ると一|僮子《どうし》の坐っている所があった。周は上清宮のある所を聞きたいので急いでその側《そば》へいって、
「これから上清宮のある所へは、何里位あるかね。僕は成道士を尋ねて
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