鯉こくがおよろしければ、お代りは如何でございます、」
省三は女中の声を聞いて鯉の椀を下に置いた。鯉の肉も味噌汁ももう大方になつてゐた。
「もう沢山、非常に旨かつたから、つい一度に食べてしまつたが、もう沢山、」
省三は急いで茶碗を持つて飯を掻き込むやうにしたが、厭やなことを考へ込んでゐたゝめに女中が変に思つたではないかと思つてきまりが悪るかつた。そしてつまらぬ過去のことは考へまいと思つて飯がなくなるとすぐ茶を命じた。
「もう一つ如何でございます、」
「もう沢山、」
「では、お茶を、」
女中は茶器に手を触れた。
二
けたたましい汽笛の音が静かな空気を顫はして聞えて来た。それはその湖の縁から縁を航海する巡航船の汽笛であつた。省三は女中が膳を下げて行く時に新しくしてくれた茶を啜つてゐたが彼の耳にはもうその音は聞えなかつた。彼は十年前の己の暗い影を耐へられない自責の思ひで見詰めてゐた。
それは自分が私立大学を卒業して新進の評論家として旁ら詩作をやつて世間から認められだした頃の姿であつた。その時も彼は矢張り今日のやうにこの土地の文学青年から招待せられて講演に来たが
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