、一緒に来た二人の仲間はその晩の汽車で帰つて行つたにも関らず、彼一人はかねて憧憬してゐたこの水郷の趣を見るつもりで一人残つてゐた。
それは初夏のもの悩ましい若い男の心を漂渺の界に誘ふて行く夜であつた。その時は水際に近い旅館へわざ/\泊つてゐた。その旅館の裏門口では矢張り今晩のやうに巡航船の汽笛の音が煩く聞えた。
その夜は青い月が出てゐた。彼は旅館の下手から水際に出て歩いた。其所は湖と町の運河とが一緒になつた所で彼の立つてゐる所は石垣になつてゐるが、向ふ岸はもとのままの湖の縁で飛々に生えた白楊が黒く立つてゐてその白楊の下の暗い所から其所此所に灯の光が見えてゐる。彼は一眼見て、それは夕方に見えてゐた四つ手網を仕掛てゐる小屋の灯であると思つた。
湖の水は灰色に光つてゐた。省三は飯の時にめうな好奇心から小さなコツプに二三杯飲んでみた葡萄酒の酔が頬に残つてゐた。それがために一体に憂鬱な彼の心も軽くなつてゐた。
湖の縁は其所から左に開けて人家がなくなり傾斜のある畑が丘の方へと続いてゐた。黒いその丘は遥かの前に崩れて湖の中へ出つ張つて見えた。その路縁にも其所此所に白楊が立ち水の中へかけて蘆の
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