て細君の口元に持つて行つた。細君は泣きじやくりしながらそれを飲んだ。
「これで大丈夫だから、静にしてゐてください、」
 かう云つて医者が眼をあげた時には省三の姿はもう見えなかつた。

          七

 省三はその翌日の夕方利根川の支流になつた河に臨んだ旅館の二階に考へ込んでゐた。
「関根さん、お連様が見えました、」
 関根友一は省三がこの旅館で用ゐてゐる変名であつた。省三は不思議に思ふて女中の声のした方を見た。昨日の朝銚子で別れた女が女中の傍で笑つて立つてゐた。女は派手な明石を著てゐた。
「吃驚なすつたでせう、なんだかあなたが此所へいらつしやるやうな気がしたもんですから、昨日の夕方の汽車で引きあげて来たんですよ、」
 女は笑ひ笑ひ這入つて来た。

 省三と女とは土手を下流の方へ向いて歩いてゐた。晴れた雲のない晩で蛙の声が喧しく聞えてゐた。
「いよいよ舟に乗る時が来ましたよ、」
 女が不意にこんなことを云つた。省三はその意味が判らなかつた。
「なんですか、」
「舟に乗る時ですよ、」
 省三はどうしても合点が行かなかつた。
「舟に乗る時つて、一体こんな所に勝手に乗れる舟があります
前へ 次へ
全37ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング