云ふ馬鹿だ、身分を考へないのか、)……
 彼は楼門の下を歩いてゐた。白い浴衣を着た散歩の人がちらちらと眼に映つた。
 ……この先、こんな日がもう一箇月も続かうものなら頭は滅茶滅茶になつて何も出来なくなる出来なくなればますます生活が苦しくなる。この上生活に追はれては立ちも這ひも出来ないことになる、どうしても別居だ別居して静に筆をとる一方で、自分の哲学を完成しようそしてその間に時間をこしらへて彼の女と逢はう……
 彼は弁天堂の横から吐月橋の袂へと行つた。其所は弁天堂の正面と違つて人通りがすくなく世界が違つたやうにしんとしてゐた。彼は暗い中を見た。
「先生ぢやありませんか、」
 と、聞き覚えのある女の声がした。省三は足を止めて後の方を振り返つた。白い顔が眼の前に来た。それは水郷の町の女であつた。
「何時いらしつたんです、」
「今の汽車で参りました。ちやうど好かつたんですね、」
「何所へいらしつたんです、」
「銚子の方へ行かうと思つて、家を出たんですが、先生にお眼にかかりたくなりましたから参りました。これからお宅へあがらうと思ひまして、ぶらぶらと歩いて参りましたが、なんだか変ですから、ちよつと
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