ないから、)
 細君は三千円ばかりの父親の遺産を持つて来てゐた。……
 その日は神田の出版書肆から出版することになつた評論集の原稿を纒めるつもりで、机の傍へ雑誌や新聞の摘み切りを出して朱筆を入れてゐると、男の子がちよこちよこと這入つて来てその原稿を引つ掻きまはすので、
(おい、坊やをどうかしてくれなくちや困るぢやないか、)
 と云ふと、
(坊やお出でよ、そのお父様は、もう家のお父様ぢやないから駄目よ、)
 と云つて細君が冷たい眼をして這入つて来た。
(馬鹿、)
(どうせ、私は馬鹿ですよ、馬鹿だから、こんな目に逢ふんですよ、坊や、お出で、)
 細君はまだ雑誌の摘み切りを手にして弄つてゐる子供の傍へ行つてその摘み切りを引つたくつてをいていきなり抱きかかへた。その荒々しい毒々しい行ひが彼の神経を尖らしてしまつた。彼は朱筆を持つたなりに細君の後から飛びかかつて行つて両手でその首筋を掴んで引き据ゑた。細君は機を喰つて突き坐つた。と、子供がびつくりして大声に泣き出した。
(馬鹿、なんと云ふ云ひ方だ、)
 彼は細君の頭の上を睨み詰めるやうにして立つてゐた。
 細君の泣き声がやがて聞えて来た。
(何と
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